Leben雑記
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2006年04月21日(金) 桜の季節だね……って、なにこれ!?

 中学生の頃に読んだ、あだち充の漫画『ラフ』で、 高校生のヒロインが好きな男と春の桜の下を歩く……というシーンがあった。 「あれ? 何でこの道通るんだよ? 遠回りだろ?」という男に「ま、いいではないか」と言いながら少し離れて歩くヒロイン。二人はただ、歩く。他愛もない会話と無言。
 高校生になれば自分にもこんな青春が待っているのだろうかと、淡い期待を抱いた。

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 実際の高校生活では、自分の根暗な性格と、自分を優秀と思い他人を見下す思考のせいで、それはそれは悲惨3年間を送った。友達もほとんどいなかったし、女には影でバカにされていた。

 二年間の浪人中、これは俺の今まででもっとも孤独な期間だったが、このときに気づいた。他人と本当の意味で交わる必要はないのだと。理解してもらう必要はなく、理解してあげる必要もない。自分の考え、感情を伝えなくてもいいんだと。なぜならコミュニケーションには、本質的に、相互完全理解の不可能性が潜んでいたのだから。
 このことに気づけたのは、本を読みまくっていたのもそうであるが、皮肉にも親との不仲、そして親同士の不仲のためだった。俺に最も近い人間のことが分からず、分かってもらえないのなら、一体誰とその理想的関係にたどり着けるというのか。

 やっと、大学生になることができ、上に書いたことをキモに銘じていた俺は、コミュニケーションに「あるべき姿」を投影・期待をしていない分、コミュニケーションそれ自体を体験することができるようになった。それは、上辺だけの関係だ、と高校までの俺なら吐き捨てていたものだ。
 しかし俺は、もはやそのようなコミュニケーションに絶望しなかった。それこそが本当の姿なのだと思えるようになっていたから。

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 大学2年になった春、クラスメートの女の子と、ふとした用事で満開の桜の下を歩いた。桜が綺麗だねと俺が言うと、彼女は、とてものんびりした口調で「そうだね、今が一番綺麗だね」と答えた。
 彼女と付き合ってたわけではないし、好きだったわけでもない。気の置けない仲の女友達だというのでもない。何の変哲もない日常会話だ。会話のないように意味はなく、相互理解がされた訳もない。外から見たら、会話は高校までと何の変わりもない。
 このとき、俺は単に、みんなから遅れながら――それも周回遅れだ――、ただ「普通」になっただけなのだ。やっと、みんなと同じになった。

 …でも、彼女の言うとおり、その日の桜は本当に綺麗だった。


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