Leben雑記
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2006年02月14日(火) フェミニズムと、身のまわりの女の子

 僕のたいていの女の友達は、エスコートしてくれる男が好きという。あるいは、あからさまにそう見える。彼女たちと食事に行くときの七面倒くささといったら! 少しは何か提案してよ、と思う。せめて、それじゃヤダとか、〜系がいいとか。
 となれば、この間のここにも書いたM・Hが図らずこぼした「女々しい男が好き」という意見(そう言ったときの彼女はとてもかわいかった)も、おそらくは一般的にはマイノリティであろう。
 それに対する分析の用意があまり整っていない今、この男と女の現状を生み出した原因について、深く追求することは避けよう。また、前回の内容にしても、それが絶対だといいたいのではなく、あくまで一つの意義としてこういう言い方もできるという程度の意味合いしかない。アレは分析と呼べる代物ではないことをここで強調しておこう。


 少なくとも今、女は受身であることが多く、受身でいることを求められ、男は能動的であることが多く、能動的であることを求められる。
 浅田彰が以前、フェミニズムの意義は現状のロジックの上に「男>女」の図式があるものを転倒させて、「男<女」の図式にすることにあるわけではないといったことが思い出される。本当の意義は、そもそもそれら図式を成立させるためのパラダイム、ここで比喩的に言えば、>、<といった記号を用いたパラダイムでなく、等号(=)を持ち出すような新たなパラダイムで両項を比べることができるようになることである。
 上野千鶴子が意図的・戦略的に行なっているような男の代わりとしての女の台頭を進めるフェミニズムにわれわれは注意しなければならない。本当に重要なのは、どちらかが優位に立つような仕組み“それ自体”を壊してゆくことにある。具体的に言うと、男の仕方で男が優位にいたのが今までであったとすれば、上野千鶴子が推し進めるのは男の仕方で女が優位に立つということである。それは間違っている。「男の仕方」というものを根本的に疑うことが必要になる。つまるところ、土俵自体を疑うこと。パラダイム自体をいったん崩してしまうこと。そのためには既存のロジックと常識を疑うだけの批判的視点が重要になる。
 これは少し僕には荷が重いが。


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