Leben雑記
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2006年02月10日(金) 自我・意識の統一の問題

 ある均一な概念は、それ以外であることができない、というのが心の非論理性の論拠であった。とすれば、こうは言えまいか。

 「主観を一つだけ想定する必然性はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい、それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている「諸細胞」の一種の貴族政治? もちろん、たがいに統治することに慣れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?
 主観を多数とみなす私の仮説。」
                    ニーチェ『権力への意志』490,ちくま学芸文庫


 われわれが思考や感情を持つとき、それらはすでに結果である可能性がある、ということだろう。というのは、「諸細胞」のあいだの「協調や闘争の」結果、である。われわれが実は不明確に持つ感情や思考は、矛盾することもありうるかもしれない。ただし、僕はこう主張しよう。不明確でないような、つまり己が己を統一体として認識する明確な自我は、そこへ至るまでの経緯がどうであれ、最終的に単一であるから、無矛盾である。
 このへんに、感情と冷静な思考との違いがあるのかもしれない。人々が感情というとき、それは明確な外縁を持つはっきりとした思いであることは少ない。例えば、「誰々に対する何々という感情」という具合にクリアに示すことが難しい類の曖昧模糊としたものも感情に含まれるからだ。


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