Leben雑記
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2006年01月22日(日) |
人と関わるということ |
感情や思考、つまり僕らが持ちうるあらゆる心の動き――情動と一言で呼んでしまおう――は、自然に生じることがありえない。有り得ない! 自分自身というものを自我と呼ぶのなら、自我のなかに情動が生じるためには、常に他我が必要だろう。なぜなら、あらゆる変化は因果関係でつながっているからだ。 多くの人が信じる素朴な意味での主体性は、存在しない。あるのは、極めてプリミティヴな意味での、字義通りの主体性だけである。
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翻弄されることが嫌で、他人に対し、固有の感情を持つことをやめていた。というのは、別に「ツラいから好きになりたくない」というような狭義にセンチメンタルな意味じゃない。もっと一般的に広く言って、相手に対し期待や軽視といった、何らかの思い込みをあらかじめ自分のなかに備えてしまうことは、必ず後になってからしっぺ返しを食らう、という意味だ。 怒り、喜び、悲しみ…それだけでなく、もっと論理的な思考でさえも、他人とのかかわりの中ではじめて生じる。その情動の唐突な出現…! 僕は惑い、悩んだ。 それは、今となっても大して変わってはいないだろう。 なぜアイツに怒りを覚えたか? ――あんなことをするやつだとは思っていなかったからだ。 なぜ彼女を許せないのか? 僕のものですらないのに? ――彼女が僕を軽んじたのがショックだったからだ。 なぜ彼らとはうまくやっていけるのだろう? ――彼らに対し僕が何も期待していないからだ。
一人で家にこもれば、どんな怒りも、驚愕も、悲しい気持ちも、決して生じたりはしないだろう。距離を置き、好意も敵意も何も持たずにいれば、それはそれは楽な生活になるだろう。しかし、そんな生活を受け入れられるか? 否。
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この逆説を僕はクリアできるか。 主体的に、そして能動的に生きるということは、しかし、自我の成立において他人が決定的役割を担っていることを端的に証明する。このとき素朴な意味での主体性は崩れ、僕らの自我は因果関係というシステマチックな客観性のなかに埋没する。 この逆説を僕はクリアできるか。
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