index|past|will
その滅私奉公を自らの信条としているようなトラが、恋を、した。 蒸し暑い季節がやってきて、この集合住宅では夜、風通しをよくするために多くの家庭が玄関のドアを開け放っている。大都会の中心部にはいまだ下町風情を残したつながりがひっそり残っているのであって、ここなどはその典型である。住民はたいていが商売人であるので、遠慮も何もあったものではなく、ムームーを着たおばちゃんたちが暑いなー、いやー、ほんま暑いでー、などといいながら胸元をぱたぱたさせて廊下を闊歩していたりするのも珍しい光景ではない。 そしてある晩、廊下から、みゃう、みゃう、という小さな声が聞こえてきたのであった。ふとドアを開けると、そこには、きれいな毛並みをしててっぷりと太ったミケがちょこんと座っていたのである。 それからというもの、毎晩10時を過ぎるとドアの向こうからみゃう、みゃうという声が聞こえてくるようになった。ドアを開けてやると、トラはいそいそとやってきて、びくびくしながらミケとじぃっと見つめあう。はじめのうちは、ミケに威嚇されて身体中の毛を逆立てて駆け戻ってきたが、なんと今夜、トラはミケを我が家に招待することに成功したのである。 ミケはおそるおそる、お邪魔します、とでも言いたげな顔をして、やってきた。 だが今日は日曜日であった。「おー、この子がトラの彼女かー」と大きな声を張り上げる母、という存在を、止めることはできなかった。ミケは腰を抜かして自分の家に帰っていってしまった。 いつの世も、ヒトの世も、我々の世も、母は恋愛の障壁となりうる(この場合の「母」が集合的な意味合いのものであるのか、それともある個体を指し示すものであるのか、それは読者の方々の解釈にお任せしたいと思う)。 |