K馬日記
サリュウラヴケーマ号とバリトンサックスの『ウエエ、ウエエ』なわだち
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アグモン進化グレイモン!! ってことで、今日の哲学講座は進化についてです。 まあ、昨日の夜ふと思いつきました。 ある程度の進化というものは、やはり何かを犠牲にして得られるものだと思う。 深海に住めるようになる為には、浅瀬に行くことに対して死を賭さなければならない。 暗いところに適応する為には、視力を失わなければならない。 こんなことは一般常識としてみなが知っているところだろう。 では、この観念を人間にうつしてみるとどうなるのか。
まず人生単位を軸として考えてみる。 人生における進化とは、勿論知識の獲得になるわけだが、学習することで何が犠牲になっているのか。 それは純粋な心の様に思える。言い方を変えれば、素直さが欠如することになる。 常識を超えたものには、ある程度の疑心を以て臨んでしまうことなんてしょっちゅう。 子どもの頃は世界というものは抽象概念に過ぎなかったけれど、今や世界は制限付きの具象的なものとなっている。 アルバムを見ると、写真の中に自分は居るのだが、それが自分か疑わしいときがある。 当時の記憶がすっかりなくなっているケースだ。 そういった場合、当時の自分は既に死んでいるのだ。 過去の自身も、進化の犠牲になっているといっても過言ではない。 そう考えると、写真に魂を抜かれるといった類の迷信も真実のような気がしないでも無い。
次に歴史単位での進化をみてみよう。 産業革命やIT革命などのイノベーションによって、今の世界は形成された。 これは技術革新というまがうかたなき進化であるが、一体何を犠牲にして手に入れたというのか。 今と昔の違いに目を向けてみると、答えは意外とあっさりでてくる。 今は神が居ないものとされているが、昔には神は実在した。と私は思う。 恐らく、大半の人が今も昔も神なんて存在しない。と考えるだろう。 でも、本当にそうだろうか?昔はいたのではないか。 ムハンマドが大天使ガブリエルからアッラーの預言を受けたのは有名な話だが、果たしてそれを嘘と言えるだろうか。 おりはそうは思わない。ムハンマドは確かに天使に謁見したんだと思う。 日々進化するなかで、神に対する意識が薄れ、神が偶像となってしまったのだ。 神が実在したからこそ、モーセは出エジプトに成功したのだし、アラブ人をササン朝に打ち勝てるほど強くしたのだ。 当時は神の実在が当然だったのだ。 しかし今は違う。神は居ないものとして教えられ、それが当然となっている。 そういう風潮がなくなれば、信仰時代が再びやってくると思う。 そもそも人間は根源的にアニミズムを信仰しているのだから、それも当然である。 原始人だって、シックスセンスでアニミズムを感じた。 現代人はシックスセンスさえも喪失してしまったのではないか。 そうは思いたくはない。現代人だって心のどこかでアニミズムを信仰していると信じたい。
人類は神への謁見を犠牲にして、この世界を創世した。
以上、進化論。
多田K馬
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