K馬日記
サリュウラヴケーマ号とバリトンサックスの『ウエエ、ウエエ』なわだち
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2007年04月27日(金) 同性愛論

最近、哲学的なことを考えて過ごしています。
根源的事象について、あれこれ考えるわけです。
抽象的なものに対していかに真剣に取り組み、いかに持論を確立させるか。
それこそが、哲学本来の意味です。
考えがかぶったからといって、悲観することは無く、むしろ自分の考えに賛同してくれるものと考えれば良い。
そして、ニーチェやカントと同じ考えとかぶれば、自分がその偉人に到達したという考えで嬉しくなるだろう。
とまあ、前置きはさておき。
この日記にも哲学的なことを描いたことがありますね。
2007年01月12日の「生きること」についての持論が第一弾として、今回は第二弾。

テーマは「愛」について
今回は主に「同性愛」について語ります。
でも、勘違いなされないように・・・。

同性愛と聞くと、やはり嫌悪感を抱くが、よくよく考えてみれば、この世は同性愛に満ちている。
ワタクシがまず提示したいのは、同性愛には2種類があるということ。
それは「本質的同性愛」と「形式的同性愛」の2つ。

例えば、男が男らしい男を好きになったとする。これは本質的にも形式的にも同性愛である。
これは、男が男として同性を好きになったのであるから当然といえる。

次に、男が女らしい男を好きになったとする。これは形式的であるが、本質的ではない。
男が男を好きになるという観念から言えば、これは明らかに同性愛で、形式的なものである。
しかし、ここでは、女らしい男を好きになったとしてある。
男はその男を女性として好きになっているのであり、これは本質的な同性愛ではない。
まあ言うなれば、「菅野美穂の顔をした男」を男が好きになるということだ。

次に、男が男らしい女を好きになったとする。これは本質的であるが、形式的ではない。
この間には明らかなジェンダーがあり、形式上は同性ではないのだから、形式的同性愛ではない。
そして、ここでは男らしい女としてある。
男はその男らしさにひかれたのであって、本質的に同性を好いていることとなる。
ここで言うなれば、男が神取忍を好きになるということだ。

最後に、男が女らしい女を好きになったとする。
ここに同性愛の要素は全く無く、世間で健全とされている愛となっている。

とまあ、4例をあげてみたわけです。
そう考えると、カワイイ男子と付き合っている女性、カッコイイ女性と付き合っている男子。
これらには本質的同性愛が含まれていることになる。
そう考えると、同性愛の多さに気付くと思う。

これを発見したときのわたくしの喜びは凄かったですよ。
こんな凄いことを考えついちゃった!!ってね。

難しくないと思うけど、この文で伝わりにくかったらスイマセン。


多田K馬 /K馬への報告 /これ押すべし(≧ω≦)ノシ

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