月に舞う桜

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2021年01月23日(土) 【本】村田沙耶香『消滅世界』

村田沙耶香『消滅世界』(河出文庫)読了。

これまで読んだ村田作品の中では、この本の表紙が一番好きだ。薄い灰色の背景に、白い女性が横向きに立っている。そして背中からは、やはり真っ白な、脊椎のようなものが天に向かって伸びている。

村田沙耶香の小説はたいてい、最後の20〜30ページで狂気が加速する。物語の中盤で不快な気分になることも多いのだが、終盤で加速する狂気に強烈なカタルシスを感じる。それが、癖になる。

もう一つ、村田沙耶香の小説の魅力は、「正常」を発狂の一種と捉えている点だ。
「正しさ」「正常」って、いったい何なのか。

例えば、

「正常ほど不気味な発狂はない。だって、狂っているのに、こんなにも正しいのだから。」(P248)
「洗脳されていない脳なんて、この世の中に存在するの? どうせなら、その世界に一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」(P263)
「世界で一番恐ろしい発狂は、正常だわ」(P264)

私は結局のところ、村田沙耶香の小説のこういうところが好きで、読むのをやめられないのだ。

実験都市「楽園(エデン)」では、すべての大人は男女を問わず、すべての子どもの「お母さん」で、生まれた子どもたちはみな、すべての大人の「子供ちゃん」だ。
そこはいわばカルト村なのだが、国策なのでカルトとは見なされていない。「楽園」はそのうち他の地域にも広がり、やがて日本中を(世界中を?)覆い尽くすのだろう。そうなれば、「楽園」のあり方こそが正真正銘、「正常」となるのだろう。
かくして、人間はある発狂から別の発狂へと移行する。

私は、常識的な人間であるかのように生きているけれど、ずっと、自分には何か決定的に欠けているものがあると感じてきた。この世界のあり方に対する、どことない馴染めなさ、みたいなもの。
でも、私も世界も絶対的に正しいわけではなくて、どちらもそれぞれに発狂しているだけなのだろう。

『殺人出産』と『消滅世界』を立て続けに読んでみて、不可解なことがある。
性や家族、結婚の形が解体され、別のあり方が提示されるのだが、子どもを作って生むことだけは相変わらず続くのだ。
「男女が結婚してセックスして子どもをもうける」という従来のシステムは過去のものとなり、生殖の方法が変わっても、生殖そのものに対する批判や懐疑は見られない。

「現実ってハードじゃないですか。少しも魂を休ませる場所がなかったら、壊れちゃうんですよ」と言う登場人物が、子どもを持つことを強く望んでいる。そのことに対する批判的視点はない。

『殺人出産』や『消滅世界』より前の『タダイマトビラ』でも感じた違和感だが、現行の家族システムの呪いや欺瞞は語られるのに、子どもを生み出すことの是非は検討されない。
子どもは、自然に流れ出す経血とは違い、人間の意思の元で作られ、生み出される。そのことの責任については、語られない。
『消滅世界』よりあとの作品『地球星人』では、「私たちは労働と生殖の道具である」と語られるが、それはあくまで生殖する側への眼差しであって、生み出される子どもへの視点はない。

『殺人出産』でも『消滅世界』でも、性や生殖のあり方が変われば変わるほど、家族システムが解体されればされるほど、生殖=命をつなぐことへの執着が、むしろ強くなっていくように見受けられる。
生殖は、唯一の変えがたい「正常」であるかのように。
解説で斎藤環は、「楽園」には女性しかいないとうようなことを指摘していたけれど、女性しかいないのではなく、「母親しかいない」が正しい。女性と母親はイコールではない。
「楽園」では、男女を問わず大人は誰もが「お母さん」だ。生殖と、「子供ちゃん」に「愛情のシャワーを注ぐ」(=愛玩動物のようにかわいがる)ことが、大人たちの使命なのだ。かと言って、子どもたちを心から愛し、責任を持って育むわけではない。
私は、この生殖への執着と子どもへの責任感の欠如に、一番、ディストピアを感じる。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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