* たいよう暦*
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祖母が私が生まれたときにあつらえてくれた振袖があります。 20年間、私が着るのをずっと箪笥の中で待っていてくれた振袖。 成長した私にあつらえたものではありませんが、成人式に着せてもらうと、私の体にぴったりでした。
それって実はすごいことだったんだな、と気づいたのは、私より縦にも横にも成長した妹が成人式を迎えた時。 妹は身丈が足らずに、その振袖を着ることができなかったのです。 初めての女孫に振袖を着せたい。と願った祖母の思いが、天に通じて私はこの身長に成長したのかもしれません。 祖母の願い通りに、着物を着ることができてよかった。 成人式から何年もたって、祖母もいなくなってから、初めてそう思いました。
その当時はそんなことにも気づかず、ごく当たり前に用意された振袖を着せてもらいました。 振袖を着こなせるはずもなく、借り物のようでしたが、それでもいそいそと式典に出かけました。
いざ会場について、まわりを見渡すと、途端にうらやましくなりました。 友人の着物は、色もかわいらしく、赤やピンクや山吹色。金銀のぬいとりや、派手な柄が入っていてとても華やかにみえたからです。 それにひきかえ、私の着物は、まず色が違う。柄も入っていますが、もちろんその色使いも人とは違う。金も銀も入っていない派手さもない。 着付けの人には「なんていいお着物なんでしょ」と誉められたけれど、誰も友人はほめてくれない。かわいらしさというものがない。
その着物が「粋」で「華やか」で「すばらしくいいもの」だとわかったのは、20歳を随分すぎてから。 そして、そのよさがわかった上で、その着物を着こなせるようになったのは、さらにそこから何年もたちました。
戸籍上は、大人と呼ばれる年齢を迎えても、ものの良さや大事なことが少しも見えていなかったんだな。 今でも胸をはって「立派な大人」とはいえませんが、それでも、少しはものの良さや子供の頃は見えなかったものが見えてきたような気がします。 まだまだ「立派な大人」ではないけれど、それでも20歳からは少しは成長しているな。もっともっと、子供の頃に見えなかったものが見える「立派な大人」になりたい。 「立派な大人」でないことを少し恥じながら、そう、思った今日はごく普通の平日だったけれど、昔でいう成人の日。
いまだに「1月第2週目の月曜日」が成人の日だなんてぴんとこないなあ。
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