優雅だった外国銀行

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24 冬の時代
2005年06月04日(土)

謙治の住んでいた渋谷区神宮前の都営アパートは、家族5人の住居としては狭すぎた。 長い期間苦労した蓄えは、ある程度の住居を購入する頭金にはなっていた。 少し遠くなってもいい、広い家に住みたかった。 1978年から翌年にかけて、謙治は家探しに翻弄した。 駅から徒歩15分以内なら、何処でも良かった。 女性とは贅沢を言うものなのだろうが、謙治の妻は、杉並区か世田谷区でなければ住みたくないと言い張った。 サラリーマンの亭主に何を期待しているのだろう。 謙治は妻の意見を無視する事にした。 駅から徒歩15分以内で探すと、謙治の予算では一戸建ては無理であったので、広めのマンションを手当たり次第に申し込んだ。 この時期のマンションは、申し込みが多く抽選が当たり前であった。 小田急線、京王線、中央線、常磐線も東上線も行った。 三浦半島へも随分行った。 当時マンションで広いのは非常に少なく、一棟が全部広いのはまず無かった。 一番端だけが広くなっているのが多く、従って戸数が限られ倍率も高かった。 小田急線の玉川学園前からさほど遠くない所に、一棟だけのマンションが建ち、やや広いのが一戸だけあった。 この時も倍率が高いのを承知で申し込んだのだが、後楽園内の抽選所へ行って驚いた事に472倍になっていた。

やっと抽選に当たったのは、丸1年探し回ってからであった。93平米、ベランダが前後に20平米以上あるのが気に入った。 パンフレットには駅から10分となっていた。 問題は場所である。 総武線・下総中山駅。 謙治は妻をどう説得するか頭が痛かった。 まあ、先の事だ、まだ土台も出来てない。 引き渡しは翌年(1980)7月になる。

パリ国立銀行にも、住宅購入資金貸付制度が出来る事になった。 謙治の支払い時期には間に合わなかったが、制度が発足してすぐ、謙治は市中銀行の分を借り替えた。 この制度利用第一号である。 利率年3パーセント、期間は15年。 就業規則上、定年が55才となっていたので、40才の謙治は15年以上の契約は出来なかった。 そこで、定年年令が問題になり始めた。

パリ国立銀行東京支店の従業員も60人を超していた。 謙治の所属部署名も秘書課から総務部に変わり、謙治の上司は日本人になった。 それも二人もである。 一人は、日本の銀行を定年退職した人で、一流大学を出た人だそうだが、謙治にはただのボケ老人にしか見えなかった。 もう一人は、アメリカの大学を出た人で、猛烈にやる気が有るのだが常識を何処かへ置き忘れていた。
謙治は、日本人を上司に持った事が無かったので、どう対処したら良いのか見当が付かなかった。 それまで謙治は、こまごました事は謙治自身で判断し決定していた。 しかし、それは越権行為になるらしい。 単に、お歳暮に頂いたリンゴを、毎年しているように各部課に人数割りで配る、そんな事までも越権行為と見なされ、上層部に「悪い事」として報告された。 津村は勝手な事をすると。





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