優雅だった外国銀行

tonton

My追加

3 バンク・ナショナル・ドゥ・パリ
2005年05月05日(木)

事務所探しが始まった。 三井不動産、三菱地所、何処で仕入れた情報か分からなかったが、それ以外の物件にラボルド氏は興味を示さなかった。 竣工して間が無い、東京での最初の超高層ビルである霞ヶ関ビルへも行った。 36階建ての、空いていたのは中層階であったが、それでも眺めは素晴らしく、ラボルド氏もすっかり気に入っていた。

この頃(1968年)、世界はそれ程日本に注目してなかったので、日本で活躍している外国銀行は非常に限られていた。 それに、ある程度知名度があったのはアメリカの三行位で、フランスの銀行は存在こそしていたが、ごく一部の人が知る程度であった。 ラボルド氏は不動産屋に、「バンク・ナショナル・ドゥ・パリが、フランス国の政策によりフランスの大銀行二行の合併によって誕生した三大国立銀行の一つであり、ヨーロッパで一・二を争う大銀行である」と言う説明から始めなければならなかった。

バンク・ナショナル・ドゥ・パリが意図していたのは、いきなり支店の開設ではなく、駐在員事務所の開設であったので、それ程広いスペースは必要としてなかった。 しかし、天下の三菱地所や三井不動産は、得体の知れない外国の銀行に対して、それ程好意的ではなく、ラボルド氏の欲する30坪程の細切れは出来ないというのであった。

毎日やることがたくさんある訳ではなかったので、ラボルド氏は、良く昼寝をした。 10時頃から動き始め、やがて来るであろう子供達の為の学校の手続きに行ったり、事務所と住宅探しをしたりで終わり、12時から3時、時には4時ごろ迄、昼食の後寝ていた。

謙治は、かなり東京の地理に詳しかったが、私立学校の名前を聞いて、「はい、かしこまりました」と行けるようではもちろん無かった。 増して、日本語の学校名がフランス語になっていたら。 「リセ・エトワール・ドゥ・マタン」がそれであった。 リセが学校であり、エトワールが星であり、マタンが朝であることが分かるのには、ラボルド氏の身体全体を使った説明で、それ程時間はかからなかったが、それが、暁星学園であると分かるのには当時の謙治には難しい事であった。

家は結局、謙治が短期間ドライバーをしていたドイツ人が去った後を引き継ぐことになった。 元麻布にガマ池という小さな池があったが、その傍らの、庭の広い、日当たりの良いのが取り柄の一軒家で、まもなくその著書「みにくい日本人」で話題を醸したスイス赴任の日本大使の家であった。




BACK   NEXT
目次ページ