海を見ていました【ロビナミ】

 窓の外にはなにがあるんだろう。
ずっとそんなことを考えていた、チャイムに挟まれた50分間。
それで結局、態度の悪さを注意することも用意した授業用資料と教科書を読む以外のこともしてないのに気付く。
……教師失格かもしれない。

「まあ、あの子はちょっと特殊だから」
私の授業、そんなにつまらないかしら。なんてことをつらつら同僚に愚痴っていたら、返って来る溜息混じりの答え。
「頭良いんだけどね。上手く手を抜いてる感じ?テストとか、わざと間違えてるなって思う部分あるよ。上位10人には絶対入らないようにしてると思う。」
「貼り出されるから?目立ちたくないのかしら。」
「入学したてのとき、入試の結果を見た教師がWAISを受けさせようと躍起になったらしいよ。うんざりしたんじゃないの。だから、まぐれですよってアピール。」
「WAIS?」
ごくメジャーな知能テストだけれど、受けさせたがったからにはよっぽどの結果だったのだろう。高IQを叩き出せば、学校の宣伝になるとでも考えたのだろうか。
もっとも、その打算が我が校の優秀な生徒をひとり第一線から遠ざけたわけだけど。
純粋に“勿体無い”と思いながら、50分間ずっと、ナポレオンがニーメン川を渡りロシアに侵入したときも、モスクワの初雪に恐れ戦いた瞬間も、ずっと窓の外を見ていた少女の横顔を思い出した。
「そんなに気になる?」
気がつけばこちらを見てる同僚の姿。
底無し沼のように引きずられていく思考の淵、いや実際にはもっと爽やかなイメージで、どちらかと言えば海底の神秘に駆られてタンクを背負って潜っていくような。
「そうね、多分。すごく気になっているんだと思うわ。」
そればかり考えてしまうくらい。
「直接聞いてみたら?」
「え?」
同僚――ノジコは口の端に笑みを浮かべながら、プリンタで打ち出した資料を揃え、次の授業の準備を始めていた。
「あの子さ、前は全部のテストで何問かずつ間違えて平均点下げてたけど、最近ではそれも面倒くさいのか一教科だけ何も書かずに提出するんだ」
右上をクリップで留めて、まとめて名簿に挟んで立ち上がる。
「順番的に、そろそろあんた(世界史)じゃない?」
にやりと笑って立ち去っていく背中はすっとしていて、少しあの子に似ていると思う。
「呼び出すには充分な理由でしょ?」
態度も悪く制服も着崩しているのに、妙に凛とした背筋の、気になる女の子。


 ノジコの予言通り、次のターゲットに選ばれたらしい世界史の答案は見事に印刷したときのまま綺麗な状態で、かろうじて書かれた名前だけがそんなことを臆面もなくやってのけた少女を呼び出す赤紙代わりになる。
「説明してもらえるかしら?」
ぐんと近づいてきたような濃い空色と太陽の光を遮るように、すべてのカーテンが閉められた教室で、白い布越しの陽射しを浴びて、少女の肌はきらきらしていた。眩しくなるような若さだ。とてつもないエネルギーが薄皮一枚の向こうで渦巻いているのを感じる。
そういったものに圧倒されているだけだとしても、この子ひとりが気になることの理由にはならない。この教室で数時間前ひしめいていた何十人もの生徒全員がそんな力で爆発しそうだったのだ。若さ。平等で、無限で、愚かで、儚すぎるもの。
「カーテン、開けていいですか?」
許可を待つ気配は微塵もなく、あのすっとした姿勢で立ち上がり、カーテンを開く。
途端差し込む強い青と白。少しだけ開いた窓から風が迷い込んで、まとめられたカーテンを頼りなく揺らす。
「で、説明?なんのですか?」
なにごともなかったように平然と座りなおして言い放つ。何人もの教師がさじを投げてきたという飄々とした態度は生意気だけれど嫌味ではなくて、私にはどちらかと言えば好感が持てる。
「答案用紙を白紙で出したのはあなただけよ?」
「授業、聞いてなかったんで」
「最初に産業革命が行われた国は?」
「イギリス」
「簡単よね?これで最低でもあなたは2点は取れるはずだったことになるわ」
とぼけられるかと思った問いもさらりと答え、開けたカーテンの隙間から窓枠分の空を見ている。
こちらを向けと言うでもなく、態度を責めるでもなく、私はその横顔を眺めている。
2人のあいだに拡げた白紙のテストに頬杖ついて。
「テストの間、暇だったでしょう?」
「べつに」
「終わるまでずっと、そうやって空を見てたの?」
「……うん」
初めて、言葉に詰まるのを聞いた。たった一瞬、だけど見逃しようもない逡巡。
「私の授業、本当に聞いてなかった?」
「…………」
今度ははっきりとした沈黙。どうしよう、嬉しくなってしまった。
見た事もない表情や態度に喜ぶなんて、まるで恋でもしてるみたい。
「私の授業、つまらない?」
調子に乗って矢継ぎ早の質問をしていると、困ったように眉間を寄せて少女がこちらを向いた。横顔を見慣れすぎて、真っ直ぐな眼差しに少し戸惑ってしまう。
「……つまらなくは、」
口を開いて、また少しの逡巡。慣れないように声を殺して、肘の下に追いやられてしまっている答案用紙に視線を落とした。
「ないです」
不遜な横顔はどこへ。うつむく顔はまだ傾き始めたばかりの太陽に先駆けて微かに赤い。
「そう?嬉しいわ。」
「……モスクワの、雪の話」
「ええ」
「ナポレオンがびっくりしたって。」
「ええ」
「……今、雪が降ってきたらいいのにって、思って。」
「それで空を見てたの?」
「……どんなふうか見たかった。」
まるで催眠術師の気分。たどたどしく、賢い子の片言の供述を聞き出して、心の柔かい部分に、それこそ初雪の中に踏み込むようで、罪悪感と快感に背中を押されている。止まれない。
「他には?いつも、どんな気持ちで空を見ているの?」
少女はじっと答案用紙を見ていた。私も見つめている。
2人の視線にあぶり出されたように、ぼわりと地図が浮かんで見える。ああ、これは夢だったのだろうか。いつも窓の外ばかり見ている少女の心の裡を知りたくて、中毒のように考えてばかりいたから、心地良い夏の陽にうたた寝て、夢を。
「空じゃない――海を見ていました。」
けれど声は確かな輪郭を持っていて、まるで現実のような重みで耳に響く。
そしてはっきりと覚醒している頭も叫ぶ――これは海図だ。
「あの空の向こうは海に繋がっていて、そこで私は船に乗って航海している。海賊みたいに。」
「ナ、」
名前を呼びきる前に少女が顔をあげた。目の色を、はじめてまじまじと見た。
きれいなヘイゼルの瞳。その奥に見覚えのある色が拡がっている。あれは確か。そう、間違いなく知っている。
「私はそこに行きたいんです。違う、行かなきゃ。先生、……ロビン」
呼び捨てられたことを咎めなければ、とは、思わなかった。なぜなら彼女は海賊で。
「どうしてこんなところに居るの?」
見つめる瞳の奥で輝く信念。一面に拡がる碧い海の色。
「ほら、もう行かなくちゃ」
手を差し出されて、迷わず握り返した。重ねた手のひらの下で、白紙だった解答用紙に迷いの無い答え。
カーテンがはためいた次の瞬間、私たちは青空の中に居た。



「ロビン?」
声を掛けられてゆっくり瞼を開く。潮の匂いがした。
「どうしたの?珍しいね、熟睡してたよ。」
覗き込んでいたオレンジの頭がひっこんで、隣に腰を降ろす。私は寝そべっていたデッキチェアから体を起こして、膝に頭を乗せてくる少女の髪を撫でた。
「ごめんなさい、暇だったでしょう?」
「別に。空、見てたし。」
くすくす笑って膝に甘えてくるから、私はくすぐったがってやさしく宥めた。
「あと、海もね。空と海とあんたの寝顔があって、それで暇を持て余すことなんてないよ。」
「寝顔は悪趣味ね」
「だって珍しかったんだもん。ああ珍しいって言えば、途中冬島の海域をかすったみたいで、ちょっとだけ雪が降ったよ。」
「ふふ、そう。私も珍しい夢を見たわ」
え、なになにきかせて、なんて、そうは言ってもやっぱり退屈してたらしいナミがきらきらして顔をあげた。
さてどんなふうに話して聞かせよう。
きっと遠い国の遠い日の物語を。


2000年01月11日(火)
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