暴かれた真光日本語版
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| 2005年11月11日(金) |
(たぶん真っ当な)宗教、宗教のあり方などを語る2 |
仏教から言うと
世界真光文明教団(真光関係者集合) http://mentai.2ch.net/psy/kako/962/962797976.html
38 名前:私 投稿日:2000/07/08(土) 10:39 昔の人は、死んだら霊になる、霊は祟ったり迷ったりして、生者に災いをもたらす、と信じていました。だからよくないことがあると、それは霊のせいだと考えました。 そこで霊を神としてまつり、慰め鎮めようとしたり、霊よりも強力なものとして仏を求めました。しかし今度は神や仏を恐れるのだから同じことです。 現代に生きる我々もそうした霊に対する恐れが血となり肉となっており、「よくないこと→霊魂のせい」という刷り込みがなされています。もっともその刷り込みは強い人と弱い人がいます。刷り込みの強い人は何でもないことでも霊のせいにしては一喜一憂しますが、弱い人は気にしません。これは理屈ではないから、いくら霊魂のせいではないと説明しても納得はしないのです。SVさんと霊障のあるなしを話し合っても水掛け論に終わることでしょう。 私は霊の障りや祟りなど気にしない方が楽に生きていけると思います。楽と言っても、よくないことを霊など他者のせいにせず、自らの責任で引き受けることになるわけだからしんどいことではあります。私はそんな責任感はないから、よくないことがあれば妻のせいにします。 宗教は本当の安心を与えるものでしょう。霊の恐さを説き、「よくないこと→霊魂のせい」という刷り込みを強める宗教では、不安がつきまとう一時的な安心しかえられないと思います。
付け加えると、柳田国男、折口信夫、五来重の本を読めば、日本人の霊魂観については何となくつかめます。新興宗教の霊魂観は別に目新しいものではないことがよく分かるでしょう。
60 名前:名無しさん@1周年 投稿日:2000/07/09(日) 17:23 自分の先祖の中で変な死に方をした人がいる場合、自分に霊障が出ると思っている人がいると。
しかし仏教から言うと、ないです、それは。ありません。
だってご先祖様っていうのは、ほとんど四十九日間で他に転生してしまうわけですから、地獄に 生まれ変わったり、餓鬼に生まれ変わったり、動物に生まれ変わったりしてるわけですから、 ありませんね、それは当然。
それでね、じつは霊障体質というのは治すことは簡単なんです。 それはなぜかというと、四無量心を背景とした実践、つまり自己の苦しみを喜びとし、 他の苦しみを哀しみとする実践を行なったならば、簡単に霊体質から逃れられるということです。 だから、言い方を換えるならば、功徳の足りない人は霊体質になったり、魔境に入ったりします。 で、功徳のある人は決して魔境には入らないし、霊体質にもなりません。
331 名前:私 投稿日:2000/07/30(日) 19:30 霊でも前世、地獄など何でもいいが、それの実在を証明することはできないが、実在を否定することもできない。だから原因は前世にあります、と言われても否定できないし、あなたは地獄に堕ちます、と言われても否定できない。 前にも書いたかもしれませんが、問題が解決しない時のインチキ宗教の常套句(言い訳)は、 �,發辰箸劼匹�なっていたはずだが、この程度ですんでいるんだ。 �⊃�心や行が足りない(つまりお金をもっとよこせということ)。 ��(霊などが)手ごわいのでどうしても時間がかかる。ここでやめたら今までしてきたことがみんな無駄になるし、もっとひどくなる。 あるいはどっちに転んでもいいような論理を使います。 ある新興宗教(手かざしで病気が治ると言っている宗教です)では、妊婦が手かざしを受けて安産なら「お浄めのおかげ」、流産なら「災いをもたらすような子なので、神様の愛で流産させた」、手かざしを受けずに流産したら「その家の家系を絶やそうとする霊の仕業」と言うそうです。 うまい商売ですね。
332 名前:私 投稿日:2000/07/30(日) 19:31 あるおばあちゃんがこんなことを言っていました。 「不思議なことなんぼでもあるんや。明日の天気かてそうやろ。人間の力でどうにもできん。不思議なことはそのままいただいておくしかないんや」 神秘体験もあれこれ言わずにおいておけばよいと思います。それなのにいろんな解釈したり意味づけしたりする。神がどうのこうのとか、霊がどうしたとか。そこで問題が起こる。 昔の人にとって台風や伝染病や干ばつなどは全く突然やってくるどうしようもないものだったわけです。それは神の仕業だとか考え、何とかしてくれと神に祈ったりしました。 現代の我々からすれば無知だったのです。 神秘体験も将来、似たようなものになるかもしれません。我々が霊とか前世で迷い悩んでいることを、我々の子孫が先祖はそんなことで悩んでいたのか、無知だったんだなと思ってくれるようになればと思います。
333 名前:321 投稿日:2000/07/30(日) 21:33 えーとね、因果ということは 運命を受け入れるってことかな。 いやが上にも自分にくっついてきた運命を 嘆かずに前向きに 受け入れて日々を頑張る。明るくネ。 そんで その運命を昇華した時 因縁は消滅する。
因みに それは人にやってもらうものでもなく ましてや 金払って済むなんてことは 言語道断。自分でやること。 自分の因縁なんだから。自分の人生の中でね。
331で言われていることは 確かによく聞く言葉ですね。 私もどうかと思います。あなたの言わんとしている事は 非常によく分かります。 私自身 疑問に感じていることですから。 たかが人間 すべてを見渡せているわけでもないのに。
334 名前:321 投稿日:2000/07/30(日) 22:07 おばあさんが言われたことこそが 一番の極意のような気がします。
あの ところでわたし崇教真光のほうの者なんですけど いいですかね。なんか同じだからつい 口出しちゃったんですけど。 教義というものの中に いっぱい人の考えや解釈が入り込んで それがそうと分かっていればいいのだけど 絶対的に正しいなどと 間違いの多い人間であることを忘れてしまったが故に起こる数々の混乱を 嘆いている者です。 どの宗教も 結局これで乱れていってるんじゃないかなあ。
348 名前:私 投稿日:2000/07/31(月) 17:14 地獄についてですが、吉野秀雄『やわらかな心』からの引用です。 「さて、昭和十九年に妻のはつ子が四十一歳で死ぬ夜わたしにどんなことを告げたか。まず「自分には死後の世界は信じられない。人間はこの世だけで終わるに違いない。そしてこの世に関するかぎり、自分は幸福であったとあなたに感謝する」といい、つぎに「黙っていてもあなたは子らの面倒をみてくれるに違いないから、いまさら改めて四人の子らをよろしくたのむなどとはおかしくていえない」といい、それから「これから戦争のはげしくなる一方のこの世に生きていかねばならぬあなたや子らは、死んでいく自分よりもはるかにつらいだろう、どうかしっかりやってください」といった。 はつ子は死にぎわに「あの世はないものだ」と冷静にいいきったが、その点についてわたしはどう反応したかというと、あの世がないならば、わたしがあの世をこしらえよう、そこで再び彼女に会うめあてがないとしたら、とてもこの世を生きていけるはずがない。と、わたしはそうおもった。 お前は否定する、それは正しいであろう、だがそれならば、おれは自力であの世をおし立て、それがたとえ地獄だとしても、その地獄の火を掻き分けて会わずにおかぬ…。」 うらやましい話で、私もこの人と一緒なら地獄へでも行く、というような人と結婚していたらと思います。 『往生要集』に罪人が、 「我いま帰する所なく 孤独にして同伴なし」 と訴えながら無間地獄に堕ちていく場面があります。地獄とは訴えても、泣きわめいても、うめいても、何の甲斐もない所、すなわち孤独です。
349 名前:私 投稿日:2000/07/31(月) 17:34 >331さん >因縁は消滅する。 言葉じりをとらえるようですが、因縁が消滅する、というのはどういう意味ですか。 細かいことをうるさく言うと思われるでしょうが、言葉の意味をきちんとしないと、詐欺の論理に丸め込まれてしまうことがあります。 因縁の普通の意味は、 種をまく(因)と花が咲く(果)。しかし種をまけば必ず花が咲くわけではない。縁がなければならない。では縁とは何か。太陽の光、水、肥料など、あるいは、学校の宿題だから種をまいた、台風の被害を受けなかった、猫が植木鉢をひっくり返さなかった、などなどです。 ですから私が今ここにいるための縁は無数にあり、縁の全てを知ることなど不可能なわけです。あなたが苦しい目にあっているのはこれこれの悪縁のためだなどと簡単に言えるものではないです。まして過去の因縁をどうこうできるものではありません。 「過去と他人はどうすることもできない」 という言葉は名言だと思いますし、過去と他人を何とかしようと悩むのも事実です。
(※日記作者 ログで「私」氏の他の文も読むこと推奨)
織田信長の時代 日本の農民たちの宗教観
■■■ 真光関係者集合!!(28)■■■ http://etc.2ch.net/test/read.cgi/psy/1079832814/
80 :名無しさん@3周年 :04/03/22 17:46 織田信長の時代に、日本に来たキリスト教宣教師たちが言っている。 「日本の農民たちは、宗教に関して、無知どころか、とてもわれわれの 手には負えないような、宗教観を持っている。私はこれを切り崩すことが できない。日本の農民は、イエスキリストの教えを理解することができる。 その理解力は非常に素晴らしい。」
しかし彼らは言う。「仮に私がキリスト教徒になって、そのキリストの御心 によって、私が救われるとすれば、それはとてもありがたいことだ。だか ら私はキリスト教徒になることはできる。
しかし私の祖父や父はキリスト教徒ではなかった。そしてもう死んでしま っている。キリスト教徒にとって、異教徒は地獄に落ちる存在ではないの か。だとすれば私をかわいがってくれた祖父や父は、いまだ異教徒として 地獄の底で苦しんでいることになる。 たとえ私は、自分がキリスト教徒になって一人救われることができるとし ても、そんなキリスト教の神を絶対に信じることはできない。」と。
「バチ」論
親の宗教を強制されておかしくなった人の集まるスレ http://life7.2ch.net/test/read.cgi/mental/1100383552/
50 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/16 00:01:49 ID:+5J/ZBk1 >>48 「とくしん」(冒涜の「とく」)です
仏教はもともと、「法」を拝むものであって、仏像をおがむのも、その仏像が象徴する意味を 拝むということであり、「仏像そのものに霊的な力がある」というものではありません。
個人的には禅宗、浄土、浄土真宗、キリスト教に興味があって、いろいろ本を読んでいます。 特に浄土宗とキリスト教は構造的によく似ており、興味が尽きないです。
ネットでも、新約聖書のエピソードは検索できるので、読まれては。
ちなみに、旧約聖書の神は、「罰する神」であり、 新約聖書は、その概念を、「許す神、愛する神」に深めたイエスのエピソードで成り立っています。
イエス自身が、神が人に休息する事を定めた「安息日」に病人を手当てしたりするなど、 ユダヤ教の律法を次々破る「冒涜者」だったことがよく判ります。
69 :優しい名無しさん :04/11/16 18:37:01 ID:X99xgDbf バチとか祟りって概念は、仏教がヒンズー教とかバラモン教とかと混交したり、日本に入って神道のケガレ観念と 混交したりして出来たもの。
で、一番インド土着の宗教の影響が濃く、神道とのかかわりが深いのは密教だが、日蓮のいうような、「法華経信じなきゃ地獄に落ちる(w」 などという仏罰の観念はない。 ケガレ観念も関わる障碍というものもあるが、それは、あくまで、信仰するものを現世利益の方向に向かわせず、大乗のほうに向かわせる方便。
明王部や天部の持っている武器は観音のもっている宝珠や水瓶と同じで、あくまで慈悲の象徴。
仏道を汚した「バチ」のためではなく、信仰者の「煩悩」を切り捨てる、叱咤激励の法具。 その刃はむしろ信仰者のほうに向けられている。 縁無き衆生に、バチなど当てん罠
70 :優しい名無しさん :04/11/16 18:58:57 ID:Qnsk4f8a 当然ながら、釈迦の時代に、「仏罰」などという観念は仏教に無い。 如来や菩薩など悟りの内容の象徴化としての仏の登場はあっても、基本精神として、それは変わらない。
宗教は、形骸化したときに、本質的な概念が失われる。
キリスト教も、愛のためなら、当時の宗教的律法に違反しても、神のバチは当たらない、と説いた。
イスラム教も、当時としては、血縁関係が最大視されていた社会において、信仰で血縁関係のないもの同士 結ばれようという思想は、その寛大さは画期的だった。
しかし、時代が下り、形骸化するにしたがって、キリスト教は十字軍で他宗派を弾圧、イスラム教徒はジハードの名に置いたテロ、 仏教とは他宗派攻撃に走る
層化と日蓮正宗の争いは仏教精神からかけ離れている。
せめて一般市民に迷惑のかからないよう、折伏つーのは止めてくれ
71 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/16 19:02:29 ID:Qnsk4f8a 結論としては、層化も他の宗教も、やめたってバチなんかあたらんからやめてまえ
79 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/17 21:11:48 ID:C93yhrbo >仏像を叩き壊しても、地蔵の首をもぎ取っても、 >罰は下らないといいたいの?
仏像を叩き壊しても、自象の首をもぎ取っても、バチは当たらない。
仏教はそういう宗教。
80 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/17 21:34:40 ID:FykcxU6t ある男が、雨の中、仏像を見つけた。 男は、「こんな雨の中、仏像をさらしてはいかん」と靴をかぶせた。
その後、別の男が、「仏像に靴をかぶせるとはいかん」と、靴をどかした。 けっか、仏像は、雨に打たれ崩れてしまった。
だが、その後、男は二人とも、極楽にいったという。 これは、大事なのは、偶像ではなく、法を信じる心だということを示したエピソード。
また、貧者を救うために仏像や経を売った僧のはなしもある。 「仏は人を救う者、このために地獄に落ちるなら本望」と。
仏道を定ぜしめんとするものが、悪意を持って仏像を汚したら、それは、自分の仏性を汚す事になる。 それがはなはだ大きい不利益ということもできよう。
だが、仏道を信じていない者が仏像を壊しても、仏は哀れみからそのものに試練をあたえることはあっても、 「罰」など与えない。
「バチ」「祟り」を気にする人は、 迷信や俗信に振回されて肝心なことを忘れてる気がする。
81 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/17 21:53:07 ID:jpyYQnsS 結論を言うと、自分の無力さに絶望した所から生まれる悪人正機、他力思想の具現化である「念仏」を 形だけパクリ、帰依か地獄かを迫る「題目」は国粋主義や組織主義に結びつきやすい。 それは、仏罰などという恐怖の「ムチ」の思想が含まれるからだ。
そんなもん気にせず、どうどうと辞める方が精神衛生上好ましい。
興味あったら、自分で仏教思想を研究してみるといい。
「仏教哲学者」ではなく、歴史上の「仏教者」が、「バチ」についてなんていってるか。
まあ、「バチ」論はもうこの辺で打ち止め。もう書き込まん。
98 名前:優しい名無しさん 投稿日:04/11/18 20:04:54 ID:zEBNa788 >>85
>仏が慈悲心に基づいて人に与える試練を、仏罰というんじゃないの?
だからさぁ、層化批判してるってわかってよ 「地獄に落ちる」と脅すのが、「慈悲心に基づいて人に与える試練」か?
まあ本人はそう思って脅すんだろうけど、聖教でもチラッと読めば、 あの他者他宗批判が、慈悲心に基づいてるかどうかわかるだろ?
流れ読んでね?
天国と地獄の話(有名な話かも知れないけど・・・)
親の宗教を強制されておかしくなった人の集まるスレ http://life7.2ch.net/test/read.cgi/mental/1100383552/
133 名前:一次元 投稿日:04/11/23 19:44:12 ID:3NrCgm9B >>115 その人は、自業自得なんかじゃないと思うよ。
そんな人が増えれば、世の中はもう少しは良くなれる。 ただ、すごくエネルギーの必要な生き方で、 本人に体力あってが、頭のハードの出来が良くないと、キツイだろうけど… うまく行けば、豊かな人間関係の中で生きられると思う。
それとは反対に、無意識の内に自分の利益を優先する人は 要領が良くて、何故か運がいい。 感性の強い人には見破られるけど、本人が気付いていないので あまり憎まれないし、物理的には幸せになれるし、経済的成功者になったりする。
ここで大好きな天国と地獄の話を一つ (有名な話かも知れないけど・・・)
あるところに、天国と地獄がありました。 驚くことに、天国の住人も地獄の住人も全く同じ条件化に置かれています。
両住民は、自分の前に食物の入った壺を置かれていますが、 両手は、後ろ手に縛られ、その手に少し長いスプーンを持たされています。
地獄の住民は、何とか自分の壺から食物を食べようともがいていて、皆飢えています。
天国の住民は何とか他人に食物を食べさせようとして、後ろ手のスプーンで 食物をすくい、他人に食べさせています。そうこうしている人にも誰かが 食物を食べさせてくれます。
日記作者

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