INDEX西部オフライン

2002年04月19日(金) 横隔膜

廊下にしゃがみこみながら教室内をうかがうその巨体は、よく見知った物だけに。
職員室から戻った先で、ムサシは眉を寄せた。時間も遅く、廊下に人の気配は無い。
目の前の奇妙な姿勢の栗田以外は、放課後の校内での当たり前の風景だ。
「何やってんだ?」
指をたてて、静かにという仕種の気持ちは分かる。本人はさぞ、身体を小さく縮まらせて隠れているつもりなのだろう。教室内の人物に。
「中にいるの、ヒル魔か?」
できるだけ小声で尋ねる自分も相当に付き合いが良いなと思う。
頷く栗田の表情は困惑に満ちている。
こいつがこんな表情をする時は。たいていヒル魔の機嫌の悪さが原因だ。

栗田はその図体に似合わず、他人の顔色にびくつきすぎる。
所詮は気分屋のあいつの機嫌など適当に放っておけば良いものを、上目遣で機嫌を伺うように近寄るから。
いらない波紋が広がって不機嫌が長引く。
勝手に腹を立てているのだから、そっとしておけばいいとムサシはいつも思っている。
「ヒル魔ね、出てけって」
「……何やったんだ」
「僕、何もしてないよ………」
何もしていない栗田に、あいつが出て行けなんて言うわけが無い。
栗田の影から教室内を覗けば、机の上に足を投げ出すいつもの姿勢の背中が見えた。
カタカタと響く音から、いつものようにPCで作業をしているのはわかる。
少し大きく聞こえるキータッチの音は気のせいでは無いんだろう。
タイプミスをしたらしい舌打ちが何度か聞こえて、機嫌は悪いんだろうなと思った。
「ただ、ヒル魔がしゃっくりとまらないみたいだから。」
「………しゃっくり?」
「うん。水汲んできたりおどかそうとしたんだけど止まらなくて」
「へえ」
「うざい、って言われて」
でも、と不安そうに栗田はこちらを見上げる。
「百回しゃっくりしたら、死んじゃうって言うじゃ無い」
お前、本気かと思う程にムサシは脱力する物を感じて。
どうやってこの妙なバカを説得しようかと考えた時。
「そうだな。死んじまうのはまずいよなあ」
ふと頭に浮かんだイメージがあまりに妙案で。ムサシは小さく栗田に耳打ちした。




「ねえねえ、ヒル魔!」
教室内に飛び込んできた栗田を、ヒル魔は心底やかましいと睨み付けた。
その後ろから静かに教室内に入ってきたムサシが物言わぬままである事にも、言われぬいら立ちを感じた。
どいつもこいつも、うざってぇ。
顔を上げると同時に、胸の筋肉がまた痙攣する。
普段なら気にもならない栗田の仕種も、ムサシの意味ありげに反らされる視線も。
何もかも気に入らない。
コントロールできない筋肉の衝動的な動きに、平常心が保てない自分を自覚する。
口を開けばつまらない八つ当たりをしそうで、乱暴にノートを畳んだ。
特にする事があるわけでも無い。
「大変だよ、ヒル魔!」
「うるせえ、帰る」
「れ、練習試合だよ!あの、ほら、神龍寺と!」
「ぁあん?」
「も、申し込んで来たんだよ!」
どもりながら言葉をつなげる栗田は本当に必死だった。
一度は肩に担ぎ上げた鞄を机に下ろした時。
それまで静かに事の成りゆきを見守っていたムサシが、ヒル魔の背後から。
その薄い身体に。
上体全部を使って。

がばり、と抱きついた。

教室の中に沈黙が流れる。
結果はどうなのかと手を握ってヒル魔を見つめる栗田。
目を見開いて、動きが止まってしまったヒル魔。
そして。
一体どうなったんだとヒル魔の背後から首を伸ばすムサシ。

身動きひとつせずに腕の中で硬直してしまったヒル魔の、肝心のしゃっくりが止まったのかどうか。
この体制では顔を覗き込んで確かめる事も出来ない。
わずかに考えを巡らせたのちに、ムサシは両の手のひらをヒル魔の胸に押し当てた。
「横隔膜って、この辺か、栗田」
「うん、そうじゃないかな」
のんきな会話を続けながらムサシはヒル魔の耳に声を落とした。
「止まったか?しゃっくり」
「ヒル魔?」
まさに、後ろから抱き締められた形のまま。ヒル魔は動かない。
また、顔の色を面白く変えてくれるだろうと思っていたムサシは拍子抜けした。
なんだ。
普通じゃねえか。

てっきり、抱き着かれたら赤くなると思った、のに。

後ろからでは、ヒル魔が今どんな表情を浮かべているのかも分からない。
栗田が不思議そうにひらひらと顔の前で手を振っているからして、ほうけているんだろうか。
そんな顔は、まだ見た事が無い。
次からは、あれだな。
手のひらの下の薄い筋肉たちの、どれが横隔膜なのかと思いながら。

今度は正面からにしようと。

そんなのんきな事を考える。せっかくの表情が、顔色が、仕種が、その移り変わりが。
見えないと言うのは随分とつまらない。
そうだな、次は目の前からだ。

我に返ったヒル魔がその後一体どれほど荒れ狂うのかを考える事も出来ず。
ムサシは腕と手のひらでヒル魔の様子を確かめた。

思ったとおりに薄い胸板や、やけに早い心泊数。
背後から見下ろすだけのムサシは目の前の生え際に気が付いた。
色が白いままのそこは、同じ男とは思えない程に細くて色が薄く。
なんとなく、反射的に顔を近付けて匂いを嗅いでみた。
気配でわかったのだろうか、ヒル魔のからだが腕の中でびくりと跳ねる。
何かの整髪料のようなものに混じる、汗の匂い。
汗ばんでいる、肌の臭い。

教室の中でこいつが汗かくなんて。珍しい事もあるんだな。

ムサシは動かないヒル魔の頭に顎を落とした。
少しばかりある身長差が、ちょうどいい高さだった。

まあ、後ろからってのも悪くねえ。

のんきにそんな事を考えるムサシは。
その後に盛大にふきあれるヒル魔の癇癪の予兆にまだ、気が付かない。









050721
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