INDEX西部オフライン

2000年10月07日(土) 雨宿り

 秋の長雨とはよく言ったもんだとヒル魔は軒先きから空を見上げた。薄ぼんやりと曇った空は雨の止み時をつかませない。酷暑の記憶がまだ残っている内は、気温の下がる雨が喜ばれていたが。冷えて行く気温にも慣れると止まない雨は厄介にしか思えて来なかった。
 そろそろ日が暮れるためでもあるのだろう、何度目かに見上げた空はさっきよりも重く見えた。この程度の雨であれば、ヒル魔は濡れを構わずに歩く方だ。それでもこんな狭い軒先から一歩も動けなくなっているのは荷物の中にあるノートPCのせい。間が悪いとはこの事で、今日の鞄は防水がされていない。わずかな水滴さえも致命傷になるコレを思えば、このまま止むのを待つしかなかった。
 どうせならば、駅前でもう少し時間を潰しておけば良かった。こんな所では閑を潰すような物は何も無い。古い家の前に置かれた自動販売機の狭い雨避け。下手に住宅街に近付いたおかげで、自動販売機に背中を押し付け、なんとか濡れないですむ場所しか確保出来ていない。
 つま先はとうに水が染みて冷たかった。今日に限って傘を忘れたが、呪わしいのは自分のうかつさであるようりも、止む気配のない空模様だった。
 こんな時に苛ついても仕方が無いが、眉間に寄る皺は時間と共に深くなる。知り合いの誰かを適当に呼び出し、傘でも届けさせようかと思った時。そいつはのっそりと現れた。
 夕暮れもいえる薄やみの中、熊のようにでかい図体が自販機の前に立っていた。煙草でも買いに来たのかと思ったがどうも男はこちらを見ている。自動販売機の横にもたれて雨を避けているヒル魔を、だ。傘を持っていないそいつは、しっとりと全身を雨に濡れるまま立っていた。
 不しつけにも感じるような遠慮の無い男の視線に、ヒル魔は負けじと睨み返す。雨を避けられるスペースはぎりぎりで1人分だけ。男はヒル魔よりも体格が良く、大分年上そうに見えたが、だからと言って引くつもりはなかった。
「何見てんだおっさん」
「あー。すまん、ちょっとそこどけてくれねえか」
「……てめえ、何言ってんだ?」
 随分前から機嫌は悪かった。元々、売られた喧嘩は買う方だった。湿気にへにょりと垂れた前髪を片手でかきあげて凄み返す。むしろ止まない雨に苛立つ気分をこいつで発散させたくもあった。
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
「なんだ、ここはてめえの家か?」
「そこの場所に用があんだ」
「俺もこの場所に用があんだよ」
「いや、ちょっとで良いんだ」
「うるせえ。消えろ」
「あーー、その、だな」
「言ってもわかんねえタイプか、てめえは」
 雨に濡れる男からは、喧嘩を売るような怒気は感じられない。困ったように頭をかき、どうしたもんかと髭を撫でる。雨を嫌っているようでもないのだから、他の場所を探せば良いだろう。どうせこの男にはこの場所は狭すぎるはずだ。
「じゃあ、ちょっとお前そこから動くな」
 何を言ってもヒル魔がそこから動かないと悟ったのだろう。けれど男は立ち去ろうとはせず、そのまま頭をかきながらずいずいと距離を詰めて来た。男から喧嘩をしかけようとする空気は感じられず、それがヒル魔の反応を遅らせていた。
「てっめえ、やんのか」
「そうじゃねえから、そこから動くな」
 男との距離はあっというまに縮まった。縮まったというよりも接近された。壁に背を向けて立っているヒル魔に向い、抱きつくように男が両側に腕を伸ばして来た。顔が触れそうになるほど近い。濡れたジーンズが膝に触れた。男の髪から垂れる雫が、ヒル魔の肩や頬を濡らす。
 男の体格はヒル魔よりひと回り以上も立派だった。反応が遅れはしたが、喧嘩となるならば先手必勝。ふてぶてしいその頬を殴ろうと握った拳が、次の瞬間に凍り付いた。
 男が、ヒル魔に、股間を押し付けて密着したのだ。

「っ……ぐえっ……!!」
 叫んで離れたのは男の方。反射的にヒル魔が跳ね上げた膝が、腹に綺麗に刺さったせいだ。
「てめえ、ホモかこの糞変態!!」
 本気で鳥肌が立ったヒル魔は男に向って中指を立てた。雨の中で男は膝をつき、苦しそうに呻いている。
「俺がそんな好きもんに見えたか!」
「ち……が……」
「ふざっけんな!」
 怒りに言葉の端が震えた。垂れた髪もまた立ち上がるかと思えた程に怒りで頭が沸騰していた。そんなように見えたというのか。丁度良い位置にある男の顔につま先を蹴り出そうとした所で、ふとヒル魔は視線を自分の背後へ移した。呻く男の右腕が、そこを指さしていたからだ。
 ヒル魔の背後。自販機と家の壁。90度になった狭い隙間には、何故か傘が刺さっていた。
「な……んだ……?」
 雨から逃げてここに駆け込んだ時。そんな物はそこには無かった。コンビニで売られているような、安物の白いビニール傘。男は腹をさすりながら立ち上がり、ヒル魔の背後からそれを引き抜いた。泥や埃に汚れたそれを、近くの深い水たまりに転がし始める。適当な所でそれを引き出し、ぶんと振って水気を飛ばした。
「そこ、俺の傘入れてんだ」
 傘のビニールがお互いに貼り付いていて、男は丁寧にそれを開いた。金具を奥まで押し込むと、傘を軽く1回転させる。
「そんだけだ」
 男は腹をさすりながらそう言うとヒル魔に背を向けた。

 ぽかん、と突っ立ったヒル魔の視界の中から、男の背中はゆっくりと消えてた。気がつくと雨垂れがヒル魔の肩を叩いており、急いでまた背を壁に押し付けた。
 濡れない場所を確保してから、首を捻って背後の隙間に目を向けた。さすがに2本目の傘は無かった。
 何だったんだろうと記憶を反芻し、男の腹を膝で蹴った直後の顔を思い出した。崩れた男の顔めがけて、数発殴ってやるつもりだった。痛みに呻いて開いた男の、口の中から見えた歯並び。
 ぽか、と1本欠けていた前歯。
 余りの間抜けなツラに気が弛み、とっさに手が出なかったのだ。
随分変な奴だった。冴えない顔で、冴えないおっさんで、前歯が1本、欠けていた。そういや、ホモってのも特に否定はしなかった。

変なやつ。

他にやる事もない。ヒル魔はぼんやりと男の風貌を頭の中で反芻した。
雨は当分止みそうになかった。






やまだ