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「暑いな」
室内では口に出すのも阿呆らしい程熱気がこもっている。 雲水が嫌いで未だにこの家にはクーラーがない。そろそろ勘弁してほしいと思う。 たらいに張った氷水に足をつっこみうちわで仰ぐ。 こんな原始的な涼み方でどうにかなるような昨今じゃあない。 そもそも雲水は今ここにいない。 阿含の仕事についていっている。一度出て行けば1ヶ月は帰って来ない。 今年の夏はこのままで終わるのか。 武蔵は汗をぬぐいつつため息をついた。
「部屋の中、暑くねえのか」
返事が返って来ないとわかっていつつ武蔵はヒル魔に声をかけた。 声の代わりに飛んで来たのティッシュの箱を片手で受け止める。 武蔵が涼む玄関には、ヒル魔がそれまで投げ付けたものが散乱している。 乱雑で異様な並びの中心で武蔵は慣れたようにくつろいでいる。 今日の夕飯は何がいいかと武蔵がぼんやり考えているとその後頭部にクッションがあたった。
「おい、何食う?」
返事は無い。 武蔵はあまり気にしない。
「こう毎日暑いと、何も食う気しねえよな」
裏の井戸に冷やした西瓜。 そうめんばかりの食事にも飽いた。 そろそろしっかりしたもんが食べたい。
ボス、とまた後頭部に柔らかなものが投げ付けられた。 みしり、と床板が小さなきしみを立てた。 ふりむかなくとも、ヒル魔が近くに来たのだとわかる。
家の中には2人きりだからだ。
「たまには店屋物でも取るか?」
ばさり、と頭上から降ってくる布。 視界を遮るそれを確かめ、武蔵はおお、と声を上げた。 洗い晒しの木綿の浴衣。 蒸れるTシャツなどよりも、それは余程涼しそうに見えた。
「そういや、今日は祭りがあったか?」
ヒル魔が武蔵の周りでごそごそと物をあさっている。 武蔵に向って投げ付けるものが品切れになると、こうして補充を繰り返す。 あたりに積み重なった物を見て、武蔵は苦笑する。
柔らかなもの。 軽いもの。 小さなもの。 無くなっても困らないもの。
八つ当たりや不機嫌以外の目的でヒル魔は武蔵に物を投げ付ける。 そこに何も言葉は無い。
雲水が家をあけてから、ヒル魔は段々と無口になった。 始終不満そうに振る舞いながら、武蔵のそばから離れもしない。
「今日は、どっか外で飯食うか?」
浴衣をかかげて、ヒル魔に訪ねる。 目があうと逃げる。そばに寄ると避ける。 それでも、距離を置いてそばにいるヒル魔。
理由は1つ。 きっかけも1つ。 原因は武蔵。 だから武蔵は何も言わない。 武蔵はヒル魔に何も言えない。 謝りたくはない。 どう思っているのか聞く事さえ出来ない。 あった事。起きてしまった事。それを口にすれば何かが壊れるような気がしたからだ。
ヒル魔には耐えられない事なのかもしれない。 逃げようとして、逃げ切らない。 それがヒル魔の精一杯の足掻きなんだろう。 だから武蔵は何も言わない。
本当に言いたい事は口に出してはいけないからだ。
「こっちの方が、まだ涼しいぞ」
物をどけてスペースを作る。 空いた板上をぽんぽんと叩いた。 ためらうような時間が過ぎて、ヒル魔がゆっくりと近付いてくる。 三和土の床にヒル魔の小さな足が乗った。 ひやりとするその温度が良いのか足をそこから動かさない。
手首をつかんだ。 べっとりと汗をかいている武蔵の手のひらにヒル魔の肌はひやりと冷たい。 ヒル魔の身体が一瞬震え、一瞬逃げかけ、そしてすぐに大人しくなった。
武蔵の隣にすとんと座る。 細い身体はそれきり動かない。 ヒル魔の口は、何も語らない。
「お前の浴衣、どこにあったかなあ」
武蔵が足をつっこんでいるたらいにヒル魔の片足が潜る。 さぷ、という小さな音を武蔵は気がつかないふりをした。
「ソースもんが食いてえな」
水の中で肌が触れた。
「お前も好きだろ?タコやきとか、焼そばとかな」
何度かためらう様子を見せながらヒル魔の足が武蔵に寄り添う。
「甘いもんは、嫌いなんだよな」
武蔵がだらしなく開いた足の間。 そこにヒル魔が足を挟んだ。 何度触れても、何度確かめても、武蔵より少し冷たい肌だ。
「りんごの飴なんか、食べねえよなあ」
武蔵の口から出る発言はどうでもいいような事ばかり。 意識はヒル魔に集中している。それが良い事か悪い事か。 わかっている。 でも、止められない。 胸が泡立ち、喉が渇く。 頭の中が熱を持ち、口だけがただ意味もない言葉を列ねる。
ヒル魔の足指が、武蔵の足をゆっくりと撫でる。
「そういや、昔一緒に遊んだ栗田ってヤツいたろ」
ヒル魔の尖った爪先が足の甲を撫でながらつま先まで移動する。
「あいつ、どうしてるかなあ……」
ヒル魔の片手が武蔵の太股に乗る。 大気の暑さが飛んで行った。 見なくともわかる、わかる気がした。 ヒル魔の鼓動。ヒル魔の空気。ヒル魔の気持ち。
ヒル魔の願い。
うつむいた細い首筋に伝うひとすじの汗が、押し殺している武蔵の衝動を崩して行く。 匂いたつ、とでも言うのだろうか。 とうてい言葉では言い表せない何かがヒル魔の中から溢れている。
目も合わせない。 口にも出さない。 ただ、隣に座っているだけ。
顔を見たい、と武蔵は思った。 逸らした目線を追い掛ければ逃げるように背けられる。 かろうじて見える頬や耳先。 うつむく肩の小さな震え。
全身から流れてあふれる、声にもならないヒル魔の言葉。 武蔵に向けてのヒル魔の叫び。
武蔵はヒル魔の髪を撫でた。 シャワーでも浴びた後のような湿り気を含んだ柔らかな髪。 数度撫でるとヒル魔の首の角度が変わる。 けして、目は合わせない。 だからこそ、一層ハッキリと汲み取れる要求。
真っ赤に染まった目尻から頬には薄く涙が浮かびかけている。
ヒル魔には、叫びたい程の衝動がある。 むろん、武蔵の中にもある。 誰にも知られてはならない、許されない衝動。
わかっていながら押さえられない。 口に出す事さえ許されない。 これはタブーだ。 それは禁忌だ。 破ってはならない。超えてはならない。 あってはならない。 間違っている、事。
髪を撫でる動きが止まるとヒル魔のまつげがふるり、と揺れた。 ぱちぱちとまばたきを繰り返しているのはその「衝動」を押さえているからだ。
武蔵は、押さえていたくはなかった。
撫でる指が髪から首へ、首から肩へと流れて落ちた。 ヒル魔はそれを拒まない。 武蔵が手に力を入れずとも、違いの距離はゆっくりと縮まった。
泣き疲れたような、ヒル魔の目。 肌を重ねるほんの瞬間、いつも伏せたままの瞳に見とれる。 すぐに閉じ、意識は柔らかさばかりに気を取られる。
すぐに逃げてしまう感触を逃したくなくて武蔵は無理に追い掛ける。 手に力がこもる。びくつくようにヒル魔の身体に力が入る。
追い詰めている事はわかっている。 禁じられた事だと知っている。 喘ぐためか、嗚咽のためか、ヒル魔の首が角度を変えて大きく口を開いて息を吸う。
そのわずかな隙さえ。 ほんの瞬間の齟齬さえ惜しくて武蔵はヒル魔を追い掛けた。
ばた、とヒル魔の手が板に落ちる。
背中に手を回せばいいだろう。 そうしたいんだろう。 そうすればいいんだろう。
近くにより過ぎたヒル魔の表情は武蔵にはまったくわからない。 それでも伝わる、互いの気持ち。 それでも伝わってしまう違いの気持ち。
口に出す事も、形に残す事も、行動で示す事さえ全てがタブー。
逃げる事しか、さける事しか、否定する事しか許されない。
禁じられて抑圧された押さえ切れない衝動を、 2人はこうして無言で語らう。
どうあがいても、どうなったとしても、 もう止められないと2人は思った。
やまだ
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