INDEX西部オフライン

2000年08月01日(火) どろんこ 後




普段は静かなたんぼの周りが今日は朝から賑わっている。
カメラをたずさえた観光客と、この日のために準備をくり返して来た
村人達でごった返す。
午前中に神事は終わり、正午丁度から始まった「田植え」の合間に
祭り装束に身を包んだ娘達が集まりはじめた。
どの娘も綺麗な化粧と衣装に身を包み恥ずかしそうに笑いあっている。
手の中の容器に泥を汲み、指で掬い取って周りの男性達の頬になすりつける。
この日ばかりは、男達はそれを笑って受け止める。
泥を顔に塗られた男達は、その年を無病息災で過ごせると言う。
観光客や、取材に訪れるカメラマン達もその祝福からは逃げられない。
ふいをつかれた彼等の笑い声や驚きの声が辺りを満たすたんぼの縁に、
武蔵がひょいと表れた。

「ヒル魔はどうした?」と大人達からかけられる声に適当な生返事を返す武蔵。
その都度、武蔵の後ろで揺れる小さな少年の影。
汚れて着古した色合いのジャージに身を包んだ小柄な子供は大きめの帽子で表情を隠す。
後ろ手に泥の入った入れ物を隠し持ちながら。

「な、大して誰も気にしねえだろ?」

よくみれば身体に合っていない袖が子供の指先までを隠している。

「こういう時は、そういうもんなんだって」

目深にかぶった帽子のつばが持ち上がり、その下から楽しそうな目が覗いて隠れた。
帽子もジャージも、全部武蔵の持ち物から選んだ。
鬼の子と陰口をたたかれる理由の髪と耳が隠れると、それだけでまるで別人に見える。
すぐにうつむいてしまうヒル魔び表情は見てとれなかったが、この変装をとても楽しんでいる様で。
武蔵は普段見なれないヒル魔をまじまじと観察した。

いつも肌にぴったりと貼り付くような服を好むから、こんな光景はとても珍しい。
ただの小柄な少年になったヒル魔は楽しそうに祭りの会場を走り回った。
おてんばだ、女らしくない、子供らしくもないと普段うるさい大人達の目を気にしなくていい。
もっと早くこうすれば良かったとヒル魔は大きく息を吸った。

祭りの中では男女の役割がはっきり別れる。
女は男の顔に指で泥を塗りたくるが、男はそれを拒絶出来ない。
中にはたんぼに落とされる者、落ちる者もいるがそれもまた祭りの一部。
目くじらをたてるような事ではない。
ヒル魔は手にした入れ物の泥に指を浸し、男とすれ違いざまに顔に泥を塗り付ける。
塗られた者は一瞬驚き、泥を塗っている子供が男だとわかりさらに驚く。
そうして、それがヒル魔だとわかり3度繰り返しびっくりする。
武蔵の周りをちょこちょこと動きながら、ヒル魔は祭りを楽しんだ。
もっと早く、この方法に気がつきゃ良かった。
武蔵の顔にも泥を塗る。他の女に塗られた泥の上には念入りに塗りたくる。
泥が乾いて、はがれた頃にまた別の泥を塗る。
祭りが楽しい。
ヒル魔の軽い身のこなしで被害者は増え続けたが、
こんな悪戯も今日ばかりは多めに見られる。
武蔵もヒル魔もそう思っていた。



「お前、ヒル魔じゃねえかよ!」
「女の癖に何やってんだ?」
「そんなんで男になれたつもりか?」

クラスメートの数人の男子に変装を見破られたヒル魔は、周りをぐるりと囲まれた。
大人達から見れば子供同士の集まりに見えるだろう。けれど彼らとヒル魔の仲は悪い。
祭りもピークを迎えている。混雑の中で武蔵はヒル魔とは少し離れてしまっていた。
ヒル魔はきり、と唇を嚼んだ。

「今日は男か?」
「お前、女より男の恰好の方が似合うんじゃねえか!」

日頃から何かと大暴れするヒル魔を良く思っていない集団だ。
数の圧力と普段とは違う高揚感が彼らの気持ちを後押しする。
いつもとは違う強気の態度。ヒル魔は静かに退路を捜した。

「男だったら、お前も顔に泥塗らなきゃなあ!」

ヒル魔の手から入れ物が奪われた。
泥を塗ろうと狙って来る数本の手を避け続けるにも限界がある。
人込みを避け、広い場所に逃げようとしてみつけた空きスペースに身を滑らせるのと。
子供達がヒル魔を突き飛ばすのは同時だった。




派手な水音。
高く跳ね上がる泥の飛沫。
体が小さな事もあり、帽子の上まで泥だらけの子供。



また新しい犠牲者だ、と周りは笑い声で一気に沸いた。
かしゃかしゃとカメラがシャッター音を立て、子供が一斉に注目される。
突き落とした子供達はやったやった、と歓声を上げた。
泥からなんとか体を起こし、畦を登ろうとする子供の手を、
誰かがひっぱってまた突き落とした。

再度転がり落ちる子供。
祭り特有の熱気と活気に、大人達はそれを笑って眺めていた。
助けの手を差し伸べられないまま子供が泥にまみれて立ちすくむ。
数回それが繰り返された時、指をさして笑っていた少年が後ろから田んぼに蹴り落とされた。

「ヒル魔!来い!!」

どぼん、どぼんと大きな音を立ててヒル魔のそばに泥しぶきが上がる。
代わりにヒル魔の目の前に伸びた片手。
一気に押し寄せた野次馬に揉まれながら伸ばされたただ1つの救いの手。
ヒル魔はその手にすがりついた。

綺麗だった武蔵の手が、ヒル魔の泥でべっとりと汚れる。
全身が泥にまみれたヒル魔を周りの大人達は一斉に避ける。
人込みの中に不自然にあいた細いトンネル。
その中を武蔵はヒル魔の手を離さず走りぬけた。







祭りに人が集まるという事は、他の場所には人が少なくなるという事。
誰もいない小さな公園で武蔵はようやく足を止めた。
そばにある水道の蛇口を捻り、静かなヒル魔を振り返った。
泥にまみれた顔の中で縦に白い筋が2本。

「こっち、見るな!」

はがれかけた顔の泥をヒル魔はあわてて手で擦る。
武蔵はすぐに顔をそらして気がつかなかったふりをした。
水道の水でヒル魔はまず手を洗い、綺麗になった側の手で急いで帽子をつかみあげた。
武蔵が一番気に入っている、大事にしていた帽子だった。

NFLで一番大好きなチームのもの。滅多に手に入らない貴重なグッズだっただから、普段は机の上に飾ってある。
ヒル魔も大好きな帽子だった。少し渋る武蔵から強引に借りて持ってきたのだ。
鮮やかにロゴの刺繍が入った上から無惨に泥が貼り付いている。

「帽子…………」

それだけを言い、ヒル魔は武蔵に突き出した。
勢いのままそれを受けとると、ヒル魔はくるりと水道に向き直り水をまき散らしながら顔を派手に洗い始める。
綺麗な金の髪の中にも、べっとりと泥が絡んでいる。
帽子が汚れた事よりもそれがずっと痛々しかった。

泥の中に落ちたとき。ヒル魔が畦の上のこちらを見上げていたあの顔を
武蔵は忘れられないと思った。

「鬼の子」とか「悪魔の子」などという陰口を笑って聞き流してはいるが、
ヒル魔は単に強がっているだけだ。
蛇口に頭をつっこんで、髪を洗うヒル魔の体が体勢を保てずふらふらと揺れている。
自分の体をきちんと支えられない程、ヒル魔はまだ幼くてとても小さな存在だ。

「ヒル魔……」

水から顔を上げたヒル魔は少し気持ちが落ち着いたようで今度は手足を洗い始めた。
けれど服にべっとりと付着した泥が流れて来るため、中々うまく洗い流せない。
周りに人がいない事を確かめてから武蔵は手早くジャージを脱いだ。

「ヒル魔、お前これに着替えろ」

驚いて振り返ったヒル魔はジャージを中々受け取らない。

「洗わなかったら家まで帰れないだろ」
「……………いい」
「着替えろ」
「俺がちゃんと洗って帰る!」
「言う事聞かないと俺が無理矢理その服、脱がすぞ!」

珍しく強い口調の武蔵の態度にヒル魔は思わず黙り込んだ。

「……いや、そんな事しねえけど……。取りあえず、汚れてるの脱げ」

自分の言った事に少し照れながら武蔵はジャージを押し付けた。
迷いながらそれを受け取り、ヒル魔はそれでもうつむいている。
そのままじりじりと返事を待つ武蔵をヒル魔が上目遣いで睨み付ける。

「……いつまで、こっち見てるつもりだ」

はっとした武蔵の手元からヒル魔がジャージを手荒に引っぱる。

「とっととそっち向け、すけべ!」

慌てて回れ右をする。
怒っているというよりも、照れ隠しのようなヒル魔の顔が可愛かった。
ばれたらまた殴られるような事を思いつつ武蔵はヒル魔に背を向けた。
泥にまみれた格好を長くさせておきたくはない。

もう、いいよな。
しばらく静かに待ったのだからとそっと後ろを振り返り、
武蔵は慌てて捻った首を元に戻した。
ジャージの下のTシャツまでヒル魔は脱いでしまったらしい。
泥に汚れた服の中から現れて、日の光を反射させる白い背中。
外で裸になる事が不安らしく、しきりにあたりを見回していた。

風呂に入るのもいつのまにか一緒じゃあなくなった。
こんな所でそんな姿を見る事になるとは思いもしなかった。
まだまだチビでガキなあいつに、なんでこんなにドキドキするんだ。
落ち着きなく武蔵は足下の砂を蹴り続けた。

「……もう、いいぞ」

許しを得てからゆっくり振り向く。
サイズの合わない大きすぎるジャージの袖をヒル魔は必死に折りあげていた。
男の恰好をするためにヒル魔が選んだのは武蔵の少し古い服。
今の武蔵が着ていたジャージは大き過ぎて、裾がヒル魔の太股まで届く。
どういうわけだかズボンをヒル魔は脱いでしまっていた。
細くて長い両足が裾からすらりと伸びている。

「し、下はどうした」
「なんか、すげえごわごわすんだ」
「洗ってちゃんと絞ったらそれ履けよ」
「えーー」
「いいから、履け!」

縫いだジャージを武蔵は水飲み場の低い方の水道で洗った。
Tシャツはヒル魔が上の蛇口で洗う。
少し背伸びしないと届かないらしく、その都度ちらつくヒル魔の足が気になって仕方が無い。

「お前ちょっとベンチで頭乾かして来い」
「俺だってちゃんと洗えんだぞ」

ヒル魔は武蔵の言う事を聞かない。ごしごしとTシャツを洗うのに必死で
武蔵が何を気にしているのかさっぱりわからないらしい。
諦めて武蔵はジャージに神経を集中した。





もともとは水と泥。
洗い流せばおおまかな汚れは取る事が出来た。
人が誰も来ないような小さい駐車場のコンクリート上に
しぼったジャージを広げて干した。
天気が良いから、生乾きになるのはすぐだろう。
そうしたら、家に帰ってそっと洗濯機に放り込めばいい。

駐車場の中で唯一影が出来る塀の下に2人は並んで腰掛けていた。
地面に腰を下ろすとさすがに腿の周りが気になるらしく
ヒル魔は頬を赤らめて膝を内側にすり寄せている。
ぐっしょり濡れた髪の毛と、上だけのジャージ。生足の素足。
ぴったりと寄り添って来るのはさすがに少し寒いからだろうか。

慌ただしく、大騒ぎする一日だったからだろう。
ヒル魔が眠そうに首を前に倒す。

「まだ時間あるからちょっと寝てろ」

武蔵の声に素直にうなづき、心地よい重みがもたれて来る。
しんなりした毛先から水滴が垂れて武蔵の肌上を流れていく。
なんだかとても暑かったから、そんな刺激が気持ち良かった。

去年も大騒ぎだった祭り。
今年も大騒ぎになった。
多分来年もこんなもんなんだろうなと思う。

ヒル魔が一緒にいるだけで、どれもきっと楽しいと思う。



来年こそは、ヒル魔のあの姿が見たい。
隣で無邪気に寝息をたてるヒル魔に反して
想像するヒル魔の姿は少し色っぽく成長している。

今は一緒の学校に通う。それも来年の3月まで。
武蔵は中学。ヒル魔はあと何年か小学校から離れられない。
いつまでも一緒にはいられない。それが悔しくて武蔵もヒル魔に体重をかけた。
軽い体はそれだけで反対側へ倒れそうになる。
慌ててあいている片手を伸ばすとヒル魔を抱き締める形になった。

柔らかい体。
まだまだ子供臭い顔。

自分より小さな、大事な妹。
胸に沸き上がる気持ちが何なのか、わからないまま武蔵は両手に力をこめた。



ずっと、ずっと。
ずっとこうしていたい気がした。

どきどきする胸も、熱くなる頬も、目のやり場に困るのも、手を離せない訳も。
わからないまま武蔵は思った。


ずっと、こうしていられりゃいいのに。














070120


やまだ