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| 2000年07月30日(日) |
犬の武蔵と人のヒル魔 |
武蔵が穴に、「また」落ちた。これで一体何度目だろう。 初めてそれが起きた時と違いヒル魔も周りも慣れたものだ。 ヒル魔の家に駆け込んで来た子供達は、慣れたように玄関から「救出セット」を持って行く。 ばたばたと走り去る子供達の後を、ヒル魔はゆっくり歩いてついていった。
武蔵は、犬だ。 大きくなるぞと自己主張する太い手足。頭の中身はかなり悪い。
白く長い毛は雨を吸い、随分とみすぼらしく見えた。破れた段ボールの間から鳴き声も上げずにこちらをみていたのが武蔵との出会い。 水を吸った毛並みは体にびったりと貼り付き、小さな体を余計に小さく印象付ける。震えているのがはっきりとわかり、諦めたようにくたりと首を段ボールの縁にもたれていた。 生きる事を諦めたようなぼかりと開いた丸い目を、ヒル魔は無視する事が出来なかった。
特徴のある耳と顔つき、長い毛並みは血統書の存在を感じさせた。 大型犬はハスキー以外、たいてい賢いという事を聞く。どうせ飼うならそういう犬の方が良い。 拾って来たその日から、物おじする事なくヒル魔の腕の中で熟睡した態度。肝の座ったその様子と、出された餌を体が反る程にたいらげた様子に、ヒル魔はそいつを飼う事を決めた。
大型犬が賢いというのは立派な迷信だと知るまで。それほど時間はかからなかった。 武蔵、と名付けたの犬は持ち前の人懐っこさであっというまに近所の子供達と仲を深めた。 散歩に出かけた先々で、可愛がられて甘やかされる。見知らぬ通行人にさえ愛想を振りまき、 ちぎれるように尻尾をぶんぶんと振り回している最中に最初の「事件」は起きたのだった。
見るもの全部が珍しいらしい武蔵の視線はいつも非常に落ち着きがない。 その日は遅咲きの桜が花びらを風に散らせていて、武蔵はその小さな欠片を夢中になって追い掛けていた。 人通りがほとんどない道を一杯に使い、武蔵はリードが届く範囲で走り回って。 そうして、「まさかな」と思う方向へどんどん向い、そのまま落ちた。
工事中の札をかけた道路工事の穴の中に。
リードがぴんと張った途端に、ヒル魔の手元から重さが消えた。 まだ顔が小さいために首輪から武蔵の顔が抜けたようだ。 同時に、穴の中から驚きの声が上がった。 急いで駆け寄り、穴の中を覗き込む。 「上から犬が落ちて来たぞ」と工事の男達が穴の中から顔を出した。 うまい具合に転がって怪我も事故もなかったらしい。 当の武蔵はあまり気にもしていないようで。のんきに鼻の頭の花びらを舐めた。 すみません、と頭を下げるヒル魔の事などお構い無しに再度つけられたリードを引く。 たった今、首吊り状態になった事はもう頭には無いらしい。こいつは本格的に頭が悪い。
四つ足で。人間よりも余程地面に近い所を歩いている癖に。 武蔵はその後もよく「落ちた」。
からの排水溝に落ちてもあまり気にはしないらしい。 水や泥が無いときは何もなかったようにそのまま溝の中をまっすぐ走る。 耳の先だけが溝から顔を出す。御丁寧に、片側だけがちょこんと折れ、反対側はピンと立っている。 耳を折る側には草が伸びているためだ。 そんな所には気が回るらしいのに、落ちないようには出来ないらしい。
何度教えても決まった場所で同じようによそ見をし、排水溝にころりと落ちる。 そのうち体が大きくなれば落ちなくなるだろうとヒル魔は教育を諦めた。
道ばたの穴にも、ほんのわずか開いたマンホールの穴の中にも、とにかくコロコロとよく落ちる。 公園の中限定で子供達と遊ばせている最中、砂場の穴の中にさえ突進するように転がり落ちた。 馬鹿と何とかは高い所が好きって言うが、低い所が好きな場合もあるって事か。 早期の訓練が賢い犬を作ると聞いて、一通りの教育は試したものの。 せいぜい覚えたのは「飯」の一言。トイレの場所。「武蔵」という自分の名前だけ。
想像を裏切らない、良いアホぶりだ。
子供達が公園の中のとある場所でしゃがみ込んでいた。 いつもの場所。どういう経緯でそうなったのかわからない微妙な亀裂が地下の空洞と繋がってしまった場所。 そこが最近の武蔵の「落ちる」ポイントだ。
区への文句は済んでいるが、一向に埋め立てられる気配が無い。 犬が落ちる程度の穴なら心配する事はねえってか。一応板で蓋をしてみたが誰かかれかに持っていかれる。 子供が落ちたらさすがに役所も動くだろうとは思ったが子供もそれ程馬鹿じゃあないらしい。 穴に落ちるのは武蔵ばかりだ。 慣れてしまった救出作業を、子供達が取り囲む。
穴の中では武蔵が情けない泣き声を上げている。 だったら最初から落ちるなと人間だったらつっこむ所だ。
初めてそこに落ちた時、助け出す方法がわからなかった。 手は届かない。紐を垂らしてもうまく武蔵はひっかからない。 食べ物が入った籠を下ろしたが食べるだけ食べて籠の中には落ち着かない。 ついにレスキューでも呼ぶしかねえかと諦めかけたとき。ふと悪戯心が沸き上がった。 何度ダメだとしつけても涎まみれぬする武蔵の「好物」。 アレを入れたら食い付いて来るかもしれない。 ほんの洒落のつもりだった。 こんな所に落ちている時、あんなものに興味をひかれるような余裕はさすがに無いと思ったののだ。
履いていた靴を脱ぎ、持ち手にロープを縛り付けた籠の中に放り込む。 ネコにマタタビとはよく言うが武蔵はヒル魔の靴が好きだった。 脱ぎ立てのものを器用に嗅ぎ付け、しゃぶり続けて歯形と涎まみれにしてしまう。 靴の中に頭をつっこみ、そのまま眠っていた事もある。 ものは試しだとその籠を下ろすと、呆気無い程簡単に武蔵は籠の中にくるまった。 地上に戻ると泥だらけの体でヒル魔の顔に突進して来た。 呆れるやら、情けないやら、嬉しいやらほっとしたやら。
二度とこんな所に落ちるな、阿呆犬!!!
力を加減する事も忘れ、小さな頭を何度も叩くが武蔵は気にした様子もない。 それ以来何度もその穴に落ち、その都度ヒル魔の靴が活躍するわけだ。
周りをギャラリーに取り囲まれながら、ヒル魔は釣り上がった奇妙な物体を冷ややかに眺めた。 武蔵の歯形が散々ついて、使い物にならなくなった「元」靴であった物。 それに噛み付いたままぶらさがっている獣が一匹。 顎が随分と丈夫になったこの阿呆犬は、短い時間なら噛み付いたまま持ち上げられる。 無事で良かったと言う拍手。 武蔵、阿呆だーー!とはしゃぐ声。 かわいい、と携帯で写真を撮る者。 ギャラリーの反応は様々だ。 多くの注目を一身に浴びて武蔵は得意そうに尻尾をふる。 地上に戻って来るが早いか武蔵は周囲に愛想を振りまく。 元は白かったはずの毛並みにヒル魔は深くため息をついた。
お前、どっかに売っちまうぞ。
帰宅しても尚興奮気味で暴れ足りなさそうな武蔵を強引に風呂場に放り込み、 徹底的に泥を落とす。暴れる体を押さえ付け、 逃げようとする武蔵の泡を何とか洗い流した時には 両者ともぐったりと力つきていた。 ソファの上で横になっているヒル魔の上で武蔵がくうくうと寝息を立てている。 湿り気を帯びた毛並みを撫でて、寝ている時だけが大人しいなと思った矢先に突然飛び起き1人で室内を走り回る。 わずかな睡眠で疲れが多少回復したらしい。
もう今日は寝てくれるだろうと思っていたため、その辺につい置いてしまったパーカーが早速被害にあう。
「やめろ、馬鹿犬!」
どれだけ言っても懲りない犬は、ひょっとして「馬鹿」という言葉も自分の名前だと思っていrんじゃないだろうか。 あちこちの家具に突進し、様々な物に歯形をつける。叱ろうが叩こうが懲りない犬にヒル魔は今日も罵声を飛ばした。
布団の潜ると今日一日の疲れが全身にのしかかる。 疲れた。たかが犬1匹に、酷く振り回されてばかりの毎日。 子犬のうちは目が離せないというが、どこもこんな阿呆な事で大騒ぎしてるんだろうか。 さすがに散々怒ったせいか、途中で武蔵は大人しくなった。 明かりが消えて暗い家の中、武蔵の気配はどこにも無い。 ドアは細く開いているだけ。武蔵が眠っているはずの居間はここから多少距離がある。
「……………武蔵…」
小さく。囁くように。本当に小さな声でヒル魔は犬の名前を呼んだ。 ほとんど間を置かないうちに聞こえてくるのはフローリングを掻く爪の音。 すぐに顔の上に毛の固まりが飛び乗った。
子犬は日々成長している。 始めの内は自力でたどり着けなかったベッドの上も今じゃあ軽く飛び上がれる。 どれだけ怒っても、どれだけ離れても、名前を呼べばすぐに飛んでくる。
風呂上がりの顔をくまなく武蔵の舌がべろべろと舐める。 叱られた事など何とも思っていないかのように。むしろ覚えていないかのように。 悪びれる事のないその態度に、自分の方が大人気なかったんだとさえ思えて来る。
どれだけ躾ても物を覚えない馬鹿な犬。 どれだけ怒鳴っても懲りずに愛情を返してくる犬。
欲しかったのはよく懐き、言う事を聞く賢い犬。 手の中にいるのはただの馬鹿犬。
てめー、いつかしっかり躾てやるからな。
眠る間際のヒル魔の決心は毎晩繰り返されているもの。 また朝が来て同じような一日が始まる。
怒鳴る声と、甘える鳴き声。 思いもよらないハプニング。余りに馬鹿な事への落胆。 体当たりで押し付けられる強い愛情。 懐かれる事へのほんの少しの誇らしさ。 その繰り返し。その積み重ね。
武蔵が賢くなるより先に、ヒル魔が犬馬鹿になる日の方が近いのかもしれなかった。。
070119
やまだ
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