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都市が何千万という人間を飲み込んで消化する。 そこに溶け込む事が出来ないまま、垂れ流しの排泄物のような男。 そうとしか表現出来ないような存在。
それがヒル魔。
柱の影にうずくまったまま、目だけをこちらに向けて笑った。 細かい事は覚えちゃいない。気が突いた時には車を拾い、そいつと家まで向っていた。 運転手がイヤそうな顔を隠そうともせず鏡越しにちらちらと目を向けてくる。 そんな事全部が、1枚膜をへだてたように遠のいた薄い印象を受けた。
しっかりしない視界と頭。 微妙に足下が浮いている感覚。 どこか現実とは違うような空気。 それはヒル魔を見た時から始まって、部屋で飼う生活の今もそこらに漂って残ったままだ。
住処にしていた公園からも追い出され、駅で寝泊まりしていたと言う。 それにしてはこいつは妙な事を知っていた。 何気なしに口にしたいくつかの詩編の続きを諳んじる。
現実なのかいつもの「あれ」なのか、判断がつかない曖昧な存在。
いつもの病気が見せるものだとすればヒル魔は確かに存在感があった。 触れば確かに感じる骨の固さとそれを薄く覆った肉感。 どれだけ風呂に入っていないのか異臭とそれに混じった酒臭。 触るな、取るなと命令しても勝手に減っていく酒と金。 憎まれ口の応酬の毎日。 どこにでもいるような、ありきたりのろくでなし。 放っておけば野垂れ死ぬような珍しくもないただのフーテン。
そんなヒル魔が時折見せる、フーテンらしからぬ幾つもの奇妙さ。
ありえない程饒舌に文学に通じたかと思えば簡単な足し算も出来ず、ろくに買い物さえも頼めない。 食べれる物を買って来いと言えば持ちきれないだけの酒を持ち帰り、足りない分はツケだと言う。 細い体は喰うにも困った結果なのだろうがまともに食事をしている所を見ない。 地べたに転がり、酒瓶を抱え、ベットに土足のままであがり読むでもない雑誌をあたり一面ばらまいて眠る。
俺の名前を一発であてた。 まっ先に「先生」と呼んだ。 どうしてと問えば、「読んだからだよ」と返事が返る。
「だってあんた小説書いてただろ。オレ、あんたの本読んだぜ」 どう思った? 「どうってことねえ……お綺麗すぎるって 関心したけどサ」 お前のような、フーテンが?
ただのガキだと甘く見ていれば見越したようにやり返される。 一目おいて何かを任せれば驚く程にトラブルで返す。 断片化した個々のパーツが1つの形に組み合わない。 マトモな人間だと思うにしてはバランスが悪い。 見せつけられたたくさんの「奇妙さ」はどう組み合せても 1つの形に収まると思えない。
これを「現実」と思うには違和感が強い。 これを「まやかしだ」と思うにはあまりに質感がはっきりと残る。
これは、何だ。お前は何だ?
俺の名は武蔵厳。 たわむれに書いたモノが世間にうけて、文壇にユニークな地位を築いた。 流行作家、と言われれば形はつくものの、世間で思われる程イイもんでもない。 要は既存の形にあてはまらない、破天荒な一発屋。 業界の重鎮たちや理解出来ない変化を嫌う大多数からは白い目で見られ 物の価値が「風変わり」にあると思う一部の共感者から当てにならない支持を受けるだけ。
マスコミやジャーナリズムはそんな俺を「寵児」と揶揄し、 一過性の流れで持ち上げそこから利益をしぼれるだけ搾り取る。 金は流れて手元に残らず、顔が売れて迷惑が増える。
手に入らないモノが「自由」だと知り、「不便」と名付ける物が増えた。 内在している一種の病理が決定的な欠陥だと知った。 世間に隠さなければならない自分のイカレた衝動を認める事になった。
「それ」をどう名付ければ良いのか。 「狂気」と呼ぶにはありきたりすぎる。「それ」は誰にでも備わっている物だ。 「異常性欲」と思う事も多い。「それ」は性的な興奮に合わせて表に出る事が多いからだ。
幻覚を見る。幻聴を聞く。 現実とそれ以外の区別がつかなくなる。 「人」では無いものに興奮が押さえられない。 爆発的な衝動を押さえ切れなくなる。
そういった誰にでもある面が、一般的なモラルや道徳、法律の縛りから外れているだけだ。 そういった誰にでもある面の差が人より曖昧で頼り無いだけなのだ。
奇妙である事この上ないヒル魔というあのガキ。 その存在が現実なのか作ったものなのか、判断がつけられなくなっている。 ヤツは、どっちだ。 アイツは何だ。
作家という仕事を始めると飽いてくるのが繰り返す日常で貪欲に刺激や変化に餓えるようになった。 ヒル魔が何であろうと構わない。 あれは、内側に何かがある。 あれを見ていると何かが沸いた。 それが性欲なのか仕事への意欲か、飽いた空気をかき混ぜてくれる悦びなのか。 とにかく「ヒル魔」は、俺の内にある得体の知れない何かを押さえ、時には吐き出させる。 ヤツは全くやっかいだった。 有害無益のように見えて追い出してしまうには自分の中の何かが押しとどめる。 殺してやりたいと思う程の事件や迷惑を引き込んでいるのに 捨てられないと思う自分の気持ちが何よりやっかいだった。
やっこさんが来てからというもの今までがいかに「平穏」だったのかを教えられた。 何もかもがぶち壊され、それに喝采を与える時もあれば想像を絶する徹底さに打ちのめされる事も多かった。
世間からひた隠しにしている内にくすぶる暗い揺らめき。 俺は「それ」がどれだけ異常かを思い知らされる都度、必死に人目から「それ」を隠した。 成功した者が失敗し、高みから底辺へ向いあっというまに転落する喜劇。 世間が喜ぶ見事な筋書きだ。 ひょんな事から手にした地位を失う事は恐くはなかった。 何ごとも起こらない、平穏が苦痛ではない頃に戻るだけのことだ。
隠す事に理屈はなかった。 ただ、人目からそれを隠したかった。誰にも知られたくはなかった。
ヒル魔は恐らく、「それ」を見抜いた最初の人間だろう。
デパートの店員に語りかけ、口説き落とし、家に連れ込み好きなだけ犯した。 その真っ最中に乗り込んできたヒル魔が彼女を殴り、殺してしまったことがある。 この酔っぱらいが、と俺はヒル魔を殴りつけ、口汚く罵り追い出した。
ヒル魔は出て行き、戻って来なくなり。 数日たって気持ちが落ち着き、そうしてようやくヒル魔を追い出した事を悔やんだ。
俺が愛したと思っていた女の肉片が 単なるしっくいの固まりに変わっていた。 幾日も寝室の床に放置していた女の首が、マネキンの首になっちまっていたからだ。
ヒル魔は帰って来なかった。 あいつが居ない部屋の中は見事なまでに空虚なもので。 俺は何日もを無駄に過ごした。
1ヶ月後。 元の泥姿に戻ったヒル魔が異臭をまとわりつかせて帰って来た。 「金くれよ」 何があったかも忘れたように、気力のないようなだらけた目のまま。
俺は何度も同じ事を繰り返した。 犬が女に見えた事があった。抱いている最中、やはりヒル魔に踏み込まれた。 ヒル魔が古い付き合いの女に見えた事もあった。 抱き締めたとたんに姿が変わり、情けない声を出しちまった。 ヒル魔はその都度俺の元を飛び出して行き、長く戻って来ない事もあった。
手にしっかり感触が残る程ヒル魔の首を締めて殺しもした。 翌朝になって死体が見当たらず、出会ったあの駅の柱にまさかと思って探しにも出た。 数カ月そこに通って諦めかけつつ半年がたち、そうしてようやく見つけた時。 俺は情けない程ほっとした事をどう受け止めれば良いのかわからなかった。
そして何ごともなかったように続けられる奇妙な非日常。
時折思い出したようにヒル魔は俺のこの性癖を諭す。 「もっとマトモな恋愛でもしたら?べつにオレが相手でなくってもいいからよ…」 どうしてそこで「オレ」なぞという言葉が出て来る。 笑い飛ばそうとしてうまくゆかず、誰がお前なんかと怒鳴るとヒル魔は臍を曲げて部屋から出て行った。
一体、いつまでこんな事を? 俺は一体いつ楽になれる? ヒル魔の存在は「破滅」か「救い」か。 「本物」か「まやかし」か。
今もまだヒル魔はまた俺の所に居座っている。 今も相変わらず飲んだくれていて、酒瓶を片手にごろごろしている。
061008
やまだ
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