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2000年03月12日(日) 植物物語



風が吹いて、ざわりと森が揺れても長い事視界を埋めていた
大きなポプラのてっぺんは、今は無い。
数年前から、今までムサシが枝を伸ばしていた場所には
空に向かってぽっかりと穴があいたまま。

おい爺、と声をかける。

風が吹けば、以前は手の先が触れあった。
数年前の台風から。だんだんとムサシは無口になった。

おおい、と怒鳴ると。

寝ぼけたようになんだと声が上がる。
その感覚もだんだんと遠くなって。
その都度、怖くなる。
返事を待つ間の、怖い程の沈黙。
小さくなる返事を、聞き漏らしたく無くて耳をすます。
風のざわめきが邪魔だ。
そよぐ自分の枝が煩い。

ムサシ、と手を伸ばしても
もう触れられる枝はどこにも無い。
それでも、手を伸ばす。

そうして。
何日経っても。
何ヶ月経っても。
返事をずっと待ち続ける。

そこから、目を逸らせない。
少しずつ乾いてゆく表皮。
はがれて、割れて、元に戻らない。元、巨木。
それでも、またなんだと寝ぼけた声を上げてくれるんじゃ無いかと。

ヒル魔はいつまでも立ち枯れた木に目を向けていた。
風にそよぐ時も。雨に濡れる時も。
その音のどこかにムサシがいないのかと。耳を、そばだてた。

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気がついた時に、ムサシはそこに立っていた。
生まれたときから、すぐ隣でばかでかい図体をさらして。
伸び盛りのヒル魔にとっては、邪魔なだけの巨体。
言っても仕方が無いとわかっていながら。
邪魔だどけろと何度も言った。
はじめはこっちに気がつかなくて。
何度も怒鳴ると、ようやく振り向いて。
おかしな事言うやつだなと呆れた口調で名前を呼んだ。

今はもうここにはいないムサシ。

空に向かって真直ぐに伸びたムサシは、綺麗だった。
何にも邪魔される事無く、天を指した枝。
堂々とした太い体躯。
先端ほど陽に透けそうな若葉。
幹に、地に、近い程葉は少ない。潔く、天だけを目指す葉。
ヒル魔の目線にはいつも力強い幹ばかり。

冬に、大風が吹くと枝はぎしぎしと音を立てて揺れた。
眠るように冬を過ごす木々の中で、ムサシの眠りはいつも深く。
そして、春になると一番最後にぽかりと目を覚まし、それからみるみるうちに葉を茂らせた。

冬からの目覚めはいつもヒル魔が早かった。この森の中で、一番早くに花を咲かせる。
見渡す限りの枯れ野の中で、開けた視界に飛び込むのはヒル魔が咲かせる白い花のみ。

枯れた枝枝の隙間に。
誰の目にも飛び込んで来る鮮やかで大降りの白い花。
肉厚の花びらは、綺麗だという賞賛の声を受けて誇らし気に咲き乱れる。
ヒル魔の白い、艶姿。

それを切っ掛けに、森は冬から目を覚ます。
追い駆けるように梅が、桜が花を咲かせる。

けれど。
いつも爺はこの時期を寝過ごす。
声がかれる程に罵倒しても。怒鳴っても。
散ってしまう事を覚悟で枝を揺すっても。
ムサシが起きるのはヒル魔の花が散った後。
咲いている時にはとてもきれいでも、花びらは散るまぎわに赤茶た変色をする。
肉圧な一枚一枚は、地に落ちてもなおその色を保ち。
とても、醜い姿を残す。

ムサシが知っているのは、いつもその姿ばかり。
だからヒル魔はいつもどこか負い目がある。

ムサシの春は、目まぐるしい。
あっというまに目に眩しい程の葉をしげらせ、ざわざわと天を目指す。薄い薄い黄緑。
日々色濃い夏。茂った葉の隅々までが陽を浴びて陽に喜ぶ。日々濃くなる緑。
そして、舞う綿毛。
夏の最中に、武蔵が降らせる雪。
地面が白く覆われて、風に舞って飛んで行くふわふわとした子供達。
あんまり綺麗だから、ひと掴みだけとっておきたいのに。
いつも指先から風に舞ってしまう柔らかな綿。
黄色を降らせる秋。ムサシが起きている最後の季節。葉に覆われた身体が姿をあらわして。
だんだんと会話が間延びして、声が聞こえないのかとそばだてると周りはしんとして。
気がつくと、雪が積もっている、冬。


いつも、待っていた。

ムサシがこっちを見るまで。声を枯らして呼んでいた。
もう。声は聞こえない。声をかける場所もない。
数年の間に、ゆっくりと昔ムサシだった物は少しずつ朽ちていった。

それでもヒル魔は目をそらせなかった。
耳をすませばそこから何かが聞こえて来るような気がした。
今までの多くもなかったいくつかの会話。耳に焼き付いたムサシの葉ずれの音。
気がついた時から、そこにいた。あまりに綺麗で、堂々と立っていて。
だから。目が離せなかった。
一番言いたかった事は全部言えなかった。
最後まで、ただ呼び続ける事しか出来なかった。

大好きだと。その言葉が、いつも喉まで出ていたのに。


空き地の、陽の光がまっすぐに降り注ぐようになってしまった明るい空き地。
中央に苔むした残骸。まだ返事を待たれているムサシ。その、身体から。
小さな芽生えが始まった。
新しい命。受け継がれる物。ムサシとは違う、ムサシのような物。

それを黙ってヒル魔はみつめていた。
すっかりねじれてしまった幹。
空き地にむけて全部の花が向いている奇妙なこぶしの木。

生まれて来る物に。きっとムサシと呼び掛けるだろう。
成長するその別物に、ヒル魔はムサシを重ねるだろう。
いつか、それがムサシになる日が来るまで。

それに、語り続けるだろう。どれほど、ムサシが素晴らしかったかを。
あの姿。目を閉じても浮かぶ姿。声。光。ざわめき。音。そして。その存在。

ヒル魔の目がうっとりと揺れた。最初にかける言葉はムサシ。
それから。
それから。
ああ、何を語ろう。
その時が来たら。
何から始めればいいだろう。

遠いけれど、近い未来を思って。ヒル魔は目を細めた。
そこに、ムサシがいる未来。



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そして、未来のお話。
森の中に雷が落ちた。
ひどい風と雨を巻き上げた悪天候の中で何度も光って轟音が響いた。
焦げ臭さをあたりにまき散らして、一本の木が夜明けを迎えた。
朝日の中で。悲鳴を上げたのは武蔵の方だった。
ごうごうと渦巻いた大風の中で。
悲鳴なんて何も聞こえなかった。

ヒル魔。

叫んでも声は届かない。
きれいな花を咲かせる枝の葉は焦げて落ち。
たくさんの実をつける枝の先は全部折れて。

ヒル魔。

声を限りに叫んでも返事は帰って来ない。
お前が。
お前が。

声にならない。
叫びたいのは驚愕か慟哭か。嘆きか悲哀か。
枝を伸ばしてもその距離は絶望的に遠い。
春の終わりの嵐。

いつもヒル魔はこちらを見ていた。
まだ若々しいだけの自分に最初に名前をつけてくれた。
いつも嬉しそうに武蔵武蔵と声をかけた。

綺麗な奴だった。細い枝の先まで、綺麗なもんだと思っていた。
まっ先に花を咲かせる春も。葉を茂らす夏も。紅葉の秋も。最後まで待つように立ち尽くす冬も。
長い事一人だった目をしていた。
いつも誰かを思い出すように、歌うように、懐かしむように、
まるでそいつが目の前にいるように話をするような卑怯なやつだった。
「あいつ」はとても綺麗だったと。
あんなに立派なやつは見た事が無いと。
それを繰り返すから腹がたった。
ようやく背丈はヒル魔を追いこした程度。
ヒル魔の目線はいつも上ばかりを見上げているからくやしくて仕方なかった。

早く。
早くその場所を埋めてやりたかった。
俺を見ろ
お前が見ている先には、俺がいるんだ。
俺しかいないんだ。

だから、見ろと。

そんな言葉も届けられない内に。

ヒル魔と何度も叫ぶ。
声は無い。
多分、これからも無い。
想像は出来た。
生きる事がどうでもいいような目。
執着する物なんて何も無いような態度。
人をその気にさせておいて。
散々な態度。
酷い奴。

ようやく楽になれたなと肩を竦めている仕種が目に浮かんだ。
それでも、名前を呼んだ。

生きている事は辛かったかも知れないが。
それでも俺はお前が好きだった。
長い長い季節の繰り返しを懐かしむように俺を見ているお前が。
お前が俺を見ているのが。

俺は、好きだった。

ヒル魔。

せめて、もう一度声を。言葉を。
何か。
何かを。

沈黙が辛くて、ただ何か叫びたくて。
武蔵は声を限りに名前を呼んだ。



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静かな森は小さく肩をすくめて。
あの時と同じだなと呟いた。

時は流れる。若木は巨木を。
巨木は若木を見つめて過ごす。
何度も繰り返す。
寄せては返すように。
始まりはなんだったのか。
知る者はもう誰もいない。当人達でさえもしるよしはない。

ただ、繰り返される懐かしい思い。
深まる感情。そして上塗りされていく静かな時間。

終わりはいつも叫び。
沈黙の叫び。心を震わせる叫び。
一人にされる事への。
告げられなかった事への。
後悔と絶望の叫び。そればかり。
森はただあるがままにそれを飲み込む。

時は流れる。森も変わる。
けれど、どれほどの月日が流れても。

ポプラと木蓮の距離は変わる事が無く。
まるで執念のように立ち続ける。
枯れても。倒れても。折られても。
そして。
言葉が届かなくても。
必ずその場所に芽吹く、若葉。


時は流れる。森は変わる。
けれど。
変わる事なく続けられる、二本の木々の物語。











20050528


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