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2000年03月11日(土) [山の主]

5月13日の日記より。だいぶん手直ししました。


15の誕生日の朝。育ててくれた爺が死んだ。
別に、悲しいとは思わなかった。ただ、数日前から息が荒くて。
助けてくれとひゅうひゅう喉を鳴らす音が不快だった。
死ぬまで、俺の名前を呼んで。
死んでも、かっと開いた目で俺を見て。

助けを呼ぼうにも、歩けない俺は。慣れた空腹と寒さの中で、
あとどのくらいで楽になれるんだろうと思った。
ここは寒くて、暗い。
うとうとと眠気がやってきて、ああ、これで終わるんだとヒル魔は思った。

目を開けると、そこに真っ黒な固まりがあった。
よく見ればそれは髪の毛だった。
村の誰とも違う、ごわごわと天を向く髪。
頭から肩までかかるそれは、まるで獣の背中の様だ。
噂だけで聞いていた「山の主」。
何年かに一度、山津波を起こす恐ろしい奴。

その背中がこちらを向いた。
日に焼けた顔に、大きな口。その顎からのびた髭。
「おお、目が覚めたか」
嬉しそうに、笑う目。
「寒くないか」
伸びてくる手。頬を触れる指。
ぽかんと見上げると。
熊のような男は、良かった良かったと何度もうなずいた。
ぐしゃぐしゃと横たわった頭を何度も撫でる。
がさがさに荒れた指先。
村の者よりも粗末そうな服。
喉が乾いただろうと、差し出される湯飲み。
「湯だ。ゆっくり飲め」
横たわったままでうまく飲めない体を支えてくれる肩。
お湯をこぼしても変わらない口調。
初めて見る何もかもが柔らかくて。ヒル魔は泣いた。

爺が死んで、俺は天国に来た。

そう、思った。


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天国は、村の近くにあった。背負われて見下ろす村は小さく、
風にとばされそうなほど汚く映った。
帰りたいかと問われて、その背中にしがみつく。
それきり、男は二度とその問いを口にしなかった。

寝ている間に髪を梳いてやろうとした。
けれど、あまりに固くて櫛の歯がこぼれてしまった。
もごもごと、どうした、と聞くので何でもないと答える。
歯が欠けた櫛は、見たこともない親の形見だと聞いている。
男にそう告げると、形見って何だと聞かれた。
少し迷って、お守りだと教えてやった。

目が覚めると、男がいない。
日が暮れる頃に帰ってきた男の破れた着物を見て、ヒル魔は
彼が村に下りたのだと知った。
どうして、と問う。
お前のお守り、新しいのが良いだろうとの返事。
それだけのために。
背中にいくつもの傷を作って。
破れた毛皮は、丹念に縫い合わせても使い物にはならなかった。
けれど、男は嬉しそうにそれを着て。
これが、俺のお守りだと言った。

歩き方を教わった。

温泉という物を知った。

一つの布団で眠れば寒くない事。

どんな雷よりも大きないびきのそばで眠る技。

目が覚めても1人じゃない事。

自分の名前を優しく呼んでもらえること。


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全部を思い出して、ヒル魔は家を回る。
よろける体を支えるには、拾った板はあまりに用が足りなかった。
背中に当たる、石つぶて。

男が、撃たれた。
足りない食料を探して山を回っている最中に。
村の者は男を恐れていたから、きっと獣と間違えたのだろう。

けれど。
爺と同じ息が男の口からもれる。
あのときと同じ、土気色の肌。
冷たい体。

ヒル魔は戸を叩いた。生まれて初めて大声を出した。

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あれは山の主への生け贄だった。
生きているなんて、どういうことだ。
恐ろしい。山津波が来る。村びとは、おびえる。
おびえて、叩かれる戸の内側で息を殺していた。
頼む、武蔵が死んじまう、という声を。
その、頼みを村人全員が聞いたというのに。

死んでこそ、山の主に喜ばれる子供。
まだ。生きていたなんて。
全部が恐怖に染まった村。

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よろける体を、小さな板きれでなんとか支える。
青ごけを探そう。煎じて飲ませなきゃ。
今出来る事をしよう。
何度も倒れるうちに、すっかり小さくなってしまった支えの板。
よろよろと歩く道のりはとても遠く。ましてや上り坂だ。
絶望的なほどに、小屋への道のりは遠い。
それでも、歩く。地に爪を立てて。

名前を考えてやった。
自分が知っているあの薄汚れた村ではなく。
遠い遠いどこかの偉い人の名前。
いつか、自分をここから連れだしてくれるだろう人を、
ヒル魔は勝手にその名で呼んでいた。

その人の名前を、あいつにやろう。
村で、初めてその名を叫んだ。
もう一度、小さく武蔵、とつぶやく。
自分が聞いた中での、一番良い名前。

名前を呼べば。
きっとあいつも元気になる。

この忌々しい足さえも、あいつは、大切だと言ってくれた。
あいつは、欲しいものを全部くれた。
だから。自分の宝物をあげよう。
1人で寂しかったときにいつもつぶやいていた名前をあげよう。

前を見る事に必死で、ヒル魔は気が付かなかった。
後ろから、追いかけてきた村人達。
どん、と音がして。
後ろから突き倒される。
足がもつれて、泥の中に顔からつっこんだ。

どうしたんだろうと振り向きたくても、首が回らない。
動かない手。動かない体。

地面に縫いつけられてしまった視界。まだ、家までは大分ある。
戻らなけりゃ。
あいつが、怪我してる。俺がついてなけりゃ、死んでしまう。
こんなに遠くては。声を上げても届かない。

胸が熱い。息が弾む。急に、日が陰った。

おまえ。
せっかく名前をつけてやったのに。
おまえ。
声が出ない。ああ、まだ、名前を呼んでいない。

武蔵。

せめて、伝えたい。お前が、誰かに呼ばれる名前を。
お前は1人じゃないと、教えてくれたあいつに。

せめて。


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「そんでー。そんで、ばあば。「山の主」はどうなった?」
「また、独りぼっちだ」
「元にもどったのかぁ?」
「いんや。もう、「山の主」はヒル魔を知っちまった。
 寂しいって事を知っちまったからな。そりゃ、泣き叫んださ」
「………そんで、どうなったんだ」
「そんでな。「山の主」は泣いてな。泣いて泣いて、声が枯れるまで
 泣いてな。その声が、山に届いて山が崩れた」
「村は」
「つぶれちまったぁ」
「そんで」
婆は、そこで言葉を切った。縁側から見える山を指差す。
崩れた山肌から、のぞいている奇妙な形の岩。
それは、まるで頭を抱えた巨人の様だ。
「そんで、「山の主」はどうなった?」
「泣いて泣いて、岩になった」
「………」
「あの岩がな、「武蔵岩」っつうんだ」
「可哀想だ」
「ああ、まだ泣いているんだ。「山の主」はな」

お話には、2つの結末。婆はもう一つを口にはしない。
あれから村ではちょくちょく娘の姿が消えた。
年の頃は、ちょうどあのヒル魔とおなじぐらいの、娘達。
皆は、「山の主」の仕業だと言った。

だから、村びと達は岩をまつった。
「山の主」の怒りが治まりますようにと。
祠を立てた。

婆は岩を見つめる。いなくなった娘のなかで、最初に村に生きて帰った娘。
今でも、あの目を忘れられない。
壊れた櫛を首にかけて。ぼうぼうの髪の間からぎらぎらと
光った目を覗かせる。
「ヒル魔、知らないか。あんたと同じぐらいの娘なんだ」
知らない、と答えた。
恐怖に足が竦んだ。
すぐ脇には崖。落ちればひとたまりもない。
「探してるのに、見つからないんだ」
なんでもいいから、知らないか。
だから、娘はデタラメをいった。
ああ、知っている。とても綺麗な娘だったと。
この世のものとは思えない程、美しかったと。
気立ての良い、優しい子だったと。

そうか、そうだよな。
主はそのでたらめにうなずいた。
「あいつが、どっかに行くはずねえ。探してんだ」
知らねえかと再度尋ねられて、やはり首を振る。
「だけど、あんたもヒル魔知ってんだな」
髭と髪に覆われた奥の目が、ぐにゃりと歪む。
主が、笑ったのがわかった。
「他の娘達は、知らなくてな。あの滝つぼにみんな飛び込んだ」
淡々と、そう話す主の目は常に周りを見回している。
「ヒル魔、どこ行ったんだろうな」
娘は走った。
後ろも見ずに、夢中で走った。

あれから、随分時間がたったようにも思える。
なのに、今でも頭に繰り返される声。
あの、探し続けているだろう目。
婆は子供の頭を優しく撫でた。

「だからなあ。「山の主」に会ったら言ってやれ」
以来、村に広まった言い伝え。魔よけの言葉。
『ヒル魔は、あそこにいるよ。あっちでお前を待ってるよ』
そして。何度目かにさらわれた娘が滝つぼを指差し。

以来、「山の主」の姿を見た者はいない。
村に残るのは、言葉ばかり。



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050513
朝起きて朝書いた。5月13日の日記より。
あたりさんのイラストより。

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やまだ