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小さな鞄に僕の全部が入っていた。 東京の街でやっていくには小さすぎて、それでもそれ以上の物を何も持っていない僕は。同居人によろしくと言うと無言で大きな手が差し出された。僕はそれをそっと握り返した。東京では五月はもう夏に近いんですねと言ったら、そうかと、笑ってくれた大きな彼。
がさがさの手のひら。 よく日に焼けた肌。 汚い家だけどと言った言葉通りの中身はそれでも、僕は嫌いでは無かった。 少し年上のルームメイト。僕と彼は静かに暮らした。 すぐにやってきた彼の友人が来るまで。
三人での生活にもすぐに慣れた。 今までの生活がそうであったように、僕は一日をたいてい無言で過ごす。 三人目の登場は乱入という言葉にも近くて、僕は彼に何度も驚かされ、そうしてよく笑う事を教えてもらった。 彼は噂に聞いていたより随分と優しい人で、新しい街に中々慣れない僕をからかいながらよく面倒を見てくれていたと思う。ほっそりとした身体は意外に力強くて、何度かその腕力に助けられた事もある。 同い年とは思えない程の手際の良さに垣間見えた「噂」の影はいつか気にならなくなった。夜遅い僕を心配する二人は、まるで両親のように思えたものだ。
彼と彼は二階の二部屋を使い、僕は階下の和室を使った。夏に熱く、冬に寒い。それでも、そんなことが気にならない程毎日は楽しかった。 窓から見渡せる小さな庭は、夏も冬も秋も春も、何かしらの事件を引き起こした。僕は、窓から出入りする方法を覚え、彼らもまた鍵がかかった窓を外からあける方法を見つけだした。 僕の部屋は、個室であり、三人で語り明かす談話室でもあり、玄関でもあり、息をひそめてやりすごす隠れ家にもなった。毎日が辛く無かったのかと考えれば嘘になる。家の外では相変わらずたくさんの不協和音に満ちていた。 けれど、そんな事を気にかける余裕がないほどその場所はあまりに心地よく、楽しく、だから、あの一番はじめの東京の日々を僕は幸せに過ごす事ができた。僕は彼らが大好きだった。
彼は建築を目指し、彼はエンジニアを目指した。僕は気が付けば教師の免許を取る事が出来、その頃には、卒業が目の前で。 そうして、三人のそれぞれの目処がたったころに生活は終わりを告げた。
あれから、何度目かの引っ越しをした。いろいろと辛い思いが増えて行ったけれど。そんな自分を一番助けてくれたのはきっとあの三人で過ごした毎日の思い出。お互いに秘密を持ち合った、綺麗なバランスの中での綺麗な自己満足の毎日。 誰かとあんなに近くで過ごした事も初めてだった。 誰かとあんなに話をしたのもはじめてだった。 家の中にいるのが一人だと言う事の寂しさを知らなかった。 誰かがまっている事の贅沢を知らなかった。 僕は、あの人が、好きだった。
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僕の部屋は1階で、滅多に上にあがる事はなかった。そこは、僕が越してくる前から「2人」のための空気が満ちていたからだ。 理由を忘れたけれど、一度だけ、こっそりと2階にあがった事がある。それは夜中で、多分僕は彼らを驚かそうと子供じみた目的を持っていたんだろうと思う。 月が出ていて、雲がなかった。 笑いそうになる息を殺して、部屋を伺って、その光景に息を飲んだ。
静かに、からみ合う2人。 殺した声と息。漏れてくる衣擦れも身体を動かす音も、全部が湿めり気を帯びている。 綺麗に黒に染まった2人のシルエットは、何も見えなかった分を想像が補った。 上になった身体が、時折びく、と震えていた。小さく、笑いあう声がした。 声を漏らさないように口に当てられている手。 身体を支えるために床についた手のひらは握りしめる何かを探していた。 無骨な指が、あの人の肌をなぞる。 頭が何度か振られて、細くて色の薄い髪が合わせて動いた。 いつもきっちりと固められている彼の髪型が、それほど乱れたのを初めて見た。
そっと、階段を降りて部屋に戻ってもその光景は焼き付いたままで。 一瞬を覗き見ただけなのに、頭にはいくつもの彼らの姿が浮かんで消えた。
声を殺していた2人が、僕の留守の間にどんな音を立てているのかを想像した。 泣いて、鳴いて、啼いている2人が浮かんでは消える。あの人が彼にそうされているのだと思うとかっと、顔が熱かった。 いつも余裕を見せ、プライドの高そうなあの人が組み伏せられる。 僕に、ばれないようにわざわざ声を押し殺している。
そうして、身体を揺らされ、揺らしているのだろう。 今まで気にならなかったような小さな音が耳から離れない。 床がみしりと音をたてるリズムに、僕は頭から布団をかぶった。 熱くなった身体に、自然に指がのびていた。
目を前に、あの人がいた。 僕の下で目を閉じ、歯を食いしばり、そうして、赤く染まった頬を見せていた。 声が聞きたいですと言えばあの人は小さく舌打ちをして、横を向く。 だから、僕は丁寧に扱う。 聞こえてほしくないんでしょう?と問うと、枕を投げ付けられる。 僕は、ゆっくりとあの人を撫でた。その反応をじっくりと伺いながら。 僕の下で、小さく呻くとてもかわいらしい声がもれる。 それを聞きたくて耳を寄せると、姿勢が崩れて呻き声は大きくなった。 シーツをにぎりしめすぎて白くなった指を手にとって、一本一本に舌を這わした。 身体の動きを止めて、細い指をひたすらにしゃぶる。 揺すり上げていた動きが止まった事に不思議そうに薄目で見上げてくる視線。 それをしっかりと確認して、僕は大きく身体を揺すった。 殺しきれなかった声は思った通りに艶を含んでいて、僕は嬉しくなった。 口に当てようとする両手を、しっかりと掴んだまま動きを再開する。 ぎりぎりと歯をくいしばる口元が弛んで、小さな悪態が切れ切れの喘ぎにまじる。 肩でぶらぶらと揺れている足が、びくびくと跳ね上がった。 指の先が熱い、と思いながら。目の前のあの人は何度も身をよじり、僕の名前を何度も呼んだ。 実際には、あり得ない程の、甘い、優しい声で。
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3年と少したったころに、建築の現場で活躍する彼と再会した。 懐かしいねと言い合いながら、新しい同居人の話を聞かされる。 あの家に一人は広すぎるからな、と差し出された写真は、大きな耳と目と長いひげかかわいいトラ猫の写真。ほっとした僕に彼は言った。
あの家、売りに出してるんだ。もうすぐ買い手が決まるから、近い内に遊びに来ないか
少し胸が、苦しい。
彼にとっては、思い出があり過ぎるのかも知れない。 僕にとっても、あの家はあまりに眩しすぎる。 彼は少しやつれた顔に笑顔を浮かべた。あいかわらず老けたその優しい表情を見ていると、何も変わっていないと思いたかった。あの家に一人で暮らす辛さは、その表情からは感じ取れない。彼と彼との間で何があったのか。風の噂では聞いていた。 僕は、彼には何も言えなかった。 僕は、何も出来なかったからだ。 ただ、寂しくなりますねと声に出すのが精一杯だった。
果たしていない約束はたくさんある。ビアガーデンにも行っていない。 旅行をしたいねと言った時のパンフレットはまだ僕が持っている。 借りたままのCD。貸しっぱなしだったTシャツの柄はもう思い出せない。 たまに引っ張り出す写真には、笑いすぎてぶれた物が多い。 僕の部屋で狭い、狭いとぼやきながら三人で過ごした時間。 また来いよと言ってくれたのが最後の言葉。
もう、果たすことは出来ない約束。
本当に、彼の事がすきだった。あの人の事が好きだった。 もしそう言ってしまっても。きっと「そうか」と流されて、何も変わらないだろうという関係だった。 甘えた片思いを続けていられた。
喉が、苦い。慣れないタバコにむせた時に似ている。今しゃべれば、声は掠れて震えるのだろうと思った。彼と彼が辛い時、僕は連絡が無い事を理由にただ逃げていただけだった。 だから。
それきり僕らの間に沈黙が流れた。 二人で過ごしたほんの短い、あのはじまりの時と同じ空気だった。
5月は、もう夏だな
彼が言うのを僕はうなずいて聞いていた。 日射しが夏みたいですね、と言えなくて、僕はバカみたいに俯いていた。
050503 <倉庫にモドル>
やまだ
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