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| 2000年01月25日(火) |
[男の体に☆恋を盛れ]2 |
店を出て武蔵は惰性で歩いた。自宅までの短い距離。 途中にある自販機の前で足を止めて、慣れた手付きで硬貨を入れた。 ヒル魔の店と自宅とを往復する間に出来た習慣。 腰を曲げて小さな箱を取り出し、パッケージをあける。一本を咥えてからポケットを探り、小さく舌打ちをした。 口に差し込んだまま未練がましく全部のポケットへ手を突っ込んだ。 いつも吸っているのに、肝心な時にいつもライターが無い。さっき吸ったのは何時だったろうと思い返して、店に入る直前まで記憶が遡る。そうだ。あの店の、カウンター。置いて来ちまった。 そこで、足が止まる。足下に落ちているライターを反射的に拾って、街灯に透かした。ガスが完全に無い事が見てわかり、それでも親指を動かした。カチカチという音と火花だけが散る。 諦めて道ばたに放り投げようかと思い。それさえも億劫でだらりと腕を下ろした。 歩く気にもならなくなった。人どころか車さえも通らない道の真ん中で、武蔵は火のついていない煙草を咥えたままぼんやりとそこに立ち尽くした。
無い、無いと探すうちに呆れたようにいつも突き出されたライター。 当たり前のようにそれを使っていたけれど、次に店を尋ねた時にはいつもなくしていた。 確かめてみた事はないけれど。あれは多分毎回新品だった。
弁当を作ると言われて、冗談だろうと思ったあの日。 本当に用意されるとは思わなくて、初めにそれを渡された時。 どうしていいのか分からなかった。 食べた箱を洗って返す物だと言う事も思い付かなくて、結局最初の内は 毎回弁当箱ごとヒル魔に用意させていた。 あの、初めの頃の箱を。どうしたのか覚えてはいない。
携帯の番号を聞いて、そこに何度か連絡をした。 今日は行けないとか。明日の弁当はいらないとか。 そのうち面倒になって連絡もせずに店に行かない日あっても。 ヒル魔からの連絡は無かった。 いつのまにかリダイヤルの上にいつもヒル魔の名前が登って。 着信に一度も残らなかった、ヒル魔の名前。
嫌いな物がだんだんと減った弁当箱の中身。 そんな事をしゃべった事はないはずだった。
セックスなんて、誰ともした事がないと言っていた。 初めてな事ばかりだと言っていたのに。初めから優しくしてやる事はなくて。 それでも一度も痛いと言わず、武蔵のシャツを噛んで震えいてた娘。
机の上や床の上や。店の外でやった事もあった。 一度も、嫌だと言わなかった。言わせなかった。
ヒル魔にとって、それは初めての事ばかりだったろう。 嫌だとか恥ずかしいとか。それさえも初めて体験して。 けれど。それがヒル魔だけじゃあなかったことに、今、気がつかされる。
連絡しなくても、突然押し掛けても、必ず待っていてくれる場所。 何をしても拒絶されない安心できる腕の中。 押し付けないけれど、けして離れていく事もなかった視線。 そばにいるだけで嬉しいと全身を使って伝えられる思い。 自分の為だけに用意されている食事。 いつも向けられるはにかんだ笑顔。
武蔵にとっての、はじめての事。 それが初めての事なのだと気がつきもしなかった。 変わった娘なのだと思っていた。 本当の事が何も見えて無かった。
店と自宅との丁度中間のあたりでぼんやりと武蔵は立っていた。 もう潮時だった。今までの女関係を振り返ってみれば、随分と深入りし過ぎていると思う。 情事に慣れない素人娘。散々嫌な思いをさせて、散々良いようにあしらった。 手放すには良いタイミング。 出て行けと突き付けられた言葉。 今まで通りにいくのなら。また新しい相手を探せば良い。 いくらでも、彼女達は寄ってくる。それから、後腐れのない者を選べば良い。
初めて、女とやったのはいつだったっけな。
学生の頃で、それは多分中学の頃。保健室だったか体育倉庫だったか。教師だったか、学生だったか。 当時は「やれた」事が興奮で、相手がどんな奴だったかはどうでもよかった。 知らない領分を知る事が面白くて、手当りしだいに手を伸ばした。
そうして。 何も手許に残らなかった。そういう物だと思っていた。
武蔵がヒル魔を棄てたのでは無く。ヒル魔が武蔵を棄てたんだと気がつかされる。 欲しい物が目の前にあった事に、ずっと、気がつかなかった。 場所は、自宅と店の丁度中間。 そこで拾った空のライター。 何も入っていないから、元々あったように、棄ててしまえば良いライター。
あなたは中身がからっぽだと。思ったより面白く無いと棄ててこられた自分。 棄ててしまえば良い。今まで通りに。今まで知らなかったのなら、これからも必要無いだろう。
拾ってしまえば良い。からっぽでもなんでも、あるがままを好いてくれる娘なのだから。 けれど、結局中身は無い。娘が欲しがるモノを自分は持っていない。
どうすればいいのだろうと考えて。 自然に足が片方を選んだ。 自分の胸の中にある娘への気持ち。何が詰まっているのか分からない胸の奥が、これで終わりだと思うとただぐずぐずと不満を訴える。言葉にならない抵抗を感じる。けれど。それがどんな名前の感情なのか分からない。 娘が好きなのかと自問する。 わからない。 娘を大切に思うのかと考える。 そうは思えない。 ただ、駄々をこねる胸の奥。
こんなのは、嫌だ。
足は、いつのまにか駆け出していた。店までの僅かな距離を。
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店の引き戸は開いたままだった。 そっと中を伺うとそこにヒル魔の姿があった。 自分がここを出た時そのままの姿勢。 少し、椅子に顔を俯かせてその体が動かない。 そっと音を立てないように近寄って、ヒル魔の指先に自分のタオルが握られている事を見た。 自分が汚してしまったそれの端を握りしめ、小さな寝息をたてている。 顔に、服に飛び散った色々な物もそのまま。
指を伸ばした。今度は、逃げられないように、そっと。 頬に散った白を触って乾いてしまったその上をなぞった。 酷い事を、したんだなと今さらながら思った。
ふいに、ぱちりと目が開く。 綺麗な色の、濁る事を知らない瞳が真直ぐに見つめてくる。
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目の前に、武蔵がいた。心配そうに覗き込んで、頬に触れている武蔵。 最初に戻ったんだと思った。あの、優しくしてくれた武蔵。 頬をなぞる指が気持ちよくて、目を細めてそこに頬をすり寄せた。 武蔵に向かって小さく笑いかけると合わせるように笑ってくれた。 嬉しい。 夢の中だけ、いつもやさしい武蔵。 そいうえば眠る前に、すごく悲しい事があったと思い出す。 思い出したくも無いぐらい、辛い事。 「お前が、どっかに行っちまう夢、見たんだ」 目の前の顔が小さく驚いて、そして。 「どこも行かねえ」 小さく、笑った。両頬を大きな手で包まれて、これはとても素敵な夢だと思った。 「大好きなんだ」 答えは無く、困ったように武蔵の眉が寄る。 「お前が、俺の事どう思ってても、さ」 今言わなければいけないと思った。 「お前の事が大好きだ」 頬を包まれた暖かさに目を閉じた。指が、目尻を何度もなぞる。 少し上向きで、武蔵がしたいように顔を預けた。キスして欲しいと思った。 夢の中なら何でも出来ると思って、目をあける。 武蔵に抱きつこうと腕を伸ばして。 そこに、こびりついたままの白を見てからだが強ばった。 夢じゃ、ない。 「ヒル魔」 呼ぶ声。出て行ったはずの武蔵。 確かに出て行けと言ったはずなのに。 まだ夢の続きを見ているんだろうかと思った。 どこからが夢だったんだろうと思った。
告げられた言葉に、武蔵は声を失った。 どこか夢を見ているように語られる言葉。 俺の事が好きだと繰り返された態度に、今、ようやく言葉が追い付いた気がした。 「知ってた」 かろうじて、それだけが口に出せる。 でも。なんと返せばいいのか。 愛しているとか。 好きだとか。 ヒル魔が欲しがっている言葉は、多分自分の中にはまだ、無い。 多分、ヒル魔に対しての気持ちはもっと違う。
ヒル魔を邪魔だと思う事もある。 正直、こうして目の前にしても。面倒な事に手を出しているなと思う。 多分、子供じみたわがままというのが一番近い。 棄てたくは無いと言う主張。 捨てられたく無いと思う主張。 いつでも手をはなせると思っていたのに。 それは嫌だという声。 胸がざわざわと波立つ。 そんな面倒が、嫌だった。 愛とか、恋とか、そんなものは知らない。 そんな物は、多分一つも持って無い。
じゃあ。 ヒル魔に伸ばしているこの腕は。 一体どんな名前をつけてやれば良いんだろう。
「俺は、お前に何もしてやれねえ」 腕の中でヒル魔は表情も変えずに大人しく言葉を待っていた。 これが現実なのかどうなのか把握しかねているような表情。 「どうすりゃいいのか、わからねえよ」 困ったな、と今さら武蔵は思った。 何を言いたいのかさっぱり整理が出来ていない。 ただ。 俺がそばにいるだけで嬉しそうにしているヒル魔を見ていたいとか。 懐いているお前を見てるだけで良いとか。 自分が好かれているとわかるだけで十分だとか。 そばにいてほしいとか。 だけど、それは多分ヒル魔が欲しがっている関係とはちょっと違うと思う。 言葉にできなく、こんな時のいつもの癖で頭を掻きむしりたくなる。 でも、両手はヒル魔に触れていたくて。 仕方なくそのまま言葉を探した。 目が何度もあちこちに逃げて、その都度ヒル魔に視線を戻す。 不思議そうに見上げてくる、目線。 「だから、だな」 どうすればいいのか分からない。 何をすれば本当に喜ぶのかわからない。 そんな事を考える事は無かった。ただ、言われるままに腰を振ってやれば今までは喜ばれた。ちょっと変わった事をすれば大抵の女はおもしろがった。 けれど。 ヒル魔は違う。 今までの知って来たどの女達とも違う。 だから。 本当に、わからない。 「だから、だな」 今までのままじゃヒル魔を泣かす、だけになる。 「どうすりゃいいのか、言え」 出て行けと言われた相手に言う言葉じゃねえなと改めて思った。 今更な言葉にまた蹴られるかと思った。 腕の中でヒル魔は肯定も否定もしない。 不思議そうに見上げて、ぱちぱちと瞬きが繰り返される。 まだ寝ぼけてるような表情を可愛いと思って、指の腹でその目尻を撫でた。 涙の跡を指でなぞる。
しばらくそうして沈黙の後。 ヒル魔がゆっくりと、口を開いた。 「本気か」 「……………ああ」 ヒル魔の手が武蔵の甲に重なって、そのままヒル魔の顔が俯く。握られた手はとても冷たい。 抱き締めてやりゃいいのかと考えて、それでもヒル魔の言葉を待った。 しばらくの時間の後に。伏せたままでヒル魔が言葉を繋ぐ。 「じゃあ」 迷うように、言葉が途切れる。 「座れ」 中腰になっていた腰を、床の上に下ろした。 「近寄れ」 ヒル魔と同じ高さの目線。 「もっと、近寄れ」 椅子に体を預けているヒル魔に、できるだけ体を寄せる。 くたり、と体が胸に倒れてくる。抱き締めてやりたいと思うのに、手はヒル魔の両頬。 すぐそばにあるのに、とても窮屈な体勢。 「俺に」 ヒル魔の両手が、武蔵の手を外した。 迷うように目が逃げて、案外と長いまつげがふる、と震えた。 「キスしろ」 額に、唇を落とした。触れて、すぐに離す。 「そこじゃねぇ」 見上げて来たヒル魔の目尻に。 だんだんと、赤くなる頬に。 甘ったるさが混じった鼻先に。 細い、顎のラインに。 すこし塩の味がする部分を何度も舌でなぞり、音を立てて軽く吸う。 むずがるような、ささやかなキス。 「そこじゃ、ねぇ」 肩に手を回して、冷えた体を抱き締めた。 頬にもう一度唇を落として、ゆっくりと移動する。 綺麗にしてやるつもりで、顔に残っていた甘いものに舌を這わす。 くすぐったいというように逃げる顔を支えてから。 目を合わせて。 ヒル魔が目を閉じて。 唇を、落とした。 柔らかな唇をゆっくりとはみ。 軽く歯を立てる。 舌を交わらせるわけでもなく、ただ、優しいだけの口付け。 それは。 今までしてきた、どんな濃いキスよりも気持ちが良かった。 知らない事ばっかりだなと武蔵は柔らかく思った。
ヒル魔の腕がおずおずと背中に回される。 その腕の中が本当に心地よくて、武蔵は静かに言葉に耳を傾けた。 「俺を、見てろ」 離れて、また触れて、そうして、また離れて。 合間合間に、ヒル魔の言葉が武蔵に届く。 「無茶、するな」 「ちゃんと、飯を食え」 「一人で考え込むな」 「優しく、しろ」 届く言葉の全部が嬉しくて、武蔵は言葉をせがむようにキスを繰り返した。 「俺を、見てろ」 「浮気するな」 「そばにいろ」 真っ赤に顔を染めながら、堰を切ったように要求がこぼれ出てくる。 言いたかったんだろうなとあらためて思わされる事、ばかり。 「俺の事、好きになれ」 最後にそう言って、ヒル魔は口を閉じた。 きっと、言われた事は。 全部守れるだろうなと思って武蔵はぎゅうとその体を抱き締めた。 多分。 多分、これから。 ここから、全部を始めれば良い。
何をすればいいのなんて。 悩んでいたのが馬鹿らしい程。 簡単で、楽しくて、今までこうしてやれなかった事が不思議なくらいで。 武蔵はヒル魔に小さく謝った。 今まで、悪かったなと。 だけど。 ホントは、そんなに嫌じゃ無かっただろと囁いてみた。 お前は、だから馬鹿なんだと言うヒル魔の耳が赤に染まる。 どうして欲しい?と問う。 それだけの事。簡単な事。 もう少し、賢くなれと返されて、そりゃあ無理だなと笑った。
ここから、始まる。 楽しいだけの、2人の関係。
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