暴かれた真光日本語版
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(三) 裁判所の「秘文」についての判断 さて、このような経過を辿ったなかで、裁判所が、この”御神示”すなわち宗教上の秘文に関してどのような判断を示したか。 一番先に出された五〇年七月二四日東京地裁の地位保全仮処分判決はこの点につき、次のように判示しました。 「初代が作成したものであると認めることができる乙第一号証の一、二(注、写真「5」「6」)…によると、一見、初代は、『ヨのみ霊もちて娘に与えよ』という表現をもって、 その養女である岡田甲子を教団の教え主に指名したものと解する余地があるように見える。 しかし『ヨのみ霊もちて娘に与えよしという記載が昭和四九年六月一三日に作成されたものであることは、その記載自体から直ちに認めることができないのみならず、 その表書きとの縞綴形式からは、必ずしも、その本文が表書きと一体をなす文書と認めるに足りず、 また、その本文の記載の意味内容は、その前後の一連の文章の内容およぴ関連性を十分に吟味して把握すべきところ、その前後の文章の内容および関連性が本文だけからでは明らかであるといえないし、 これが明らかにすることが物理的には可能であるにもかかわらず、それが神示であることを理由として、 その前後の文章が記載されている文書の提出を岡田甲子側で拒否していることは、岡田甲子本人尋問の結果に照して明らかであり、 このような場合には、その前後の文章の内容およぴ関連性を顧慮することなく、初代が岡田甲子を教団の後継教え主に指名したと速断することはできないといわなければならない」 つまり、この秘文はちょっと見ると甲子を教え主に指名しているようにもみえるけれども、表書きとの関連性も分らないし、前後の文章もわざと隠しているのだから、 それをみなければ分らない、全部出せば判断できるけれど、全部出さないから駄目だとこの判決はいったのです。
次に、この仮処分事件の控訴審である東京高裁昭和五二年三月三一日判決はこういっています。 「神示は、たとえ宗教団体の内部にあっては批判を許さない絶対的権威を有するものであるとしても、 司法裁判所の訴訟において、それが役員の任免その他地位に関する当事者の主張事実を裏付ける証拠となりうるためには、裁判所の判断に服さなければならないことは当然であって、 単に神示であるという一事をもって裁判所の判断を排除しうるものではない。それ故、問題は、専ら、本件神示に前記発表(注、六月二五日に行なわれた幹部通夜での甲子の発表をさす) の内容の真実性を合理的に否定するだけの証拠カが認められるかどうかの一点にかかっているものといわなければならない」 としまして、岡田甲子自身その発表が間違っていたことが分ったなら直ぐ訂正すべきであり、その機会も十分あったのに正式訂正をしていないことなどをあげて、 その発表の内容の真実性を否定できないとして次のように結んでいます。 「以上の説示によって明らかなごとく、本件神示には前記発表の内容の真実性を合理的に否定するだけの証拠力は認められないといわざるを得ない。 されば、法定証拠主義を採用していないわが国の民事訴訟法の下においては、単に本件神示が存在するという一事をもって、 前記発表の事実を抹殺し、関口栄の被保全権利を承認しないがごときことは、到底、許されないものといわなければならない」
このように、高裁判決は、通夜の際の二代発表という世俗的に理解しうる事実によって関口氏に後継教え主指名があったと認定し、御神示を他の証拠同様一つの証拠方法に過ぎないとして、 その証明力を検討し、結局、通夜の際の発表内容の真実性を否定しうるような証明力を有しないと判断したのであります。 御神示だからといって、証拠判断をする上で特別の配慮を加えることなく、世俗人である裁判官の理解しうる範囲において、他の証拠同様その自由な心証により証明力を考えればよいというのが、 高裁判決の基本的考えでありましょう。それで良いかどうかが、私の今日のお話のテーマであります。 そこで最後の問題に入る前に、この御神示が、その後どうなったかについて、若干触れておきたいと思います。 この事件は仮処分だけでなく、本訴も係属しており、第一審は東京地裁で、仮処分判決同様の理由で関口氏が勝訴しました。 そして甲子側が控訴して東京高裁に係属したのですが、この段階になって、甲子側は、遂に御神示の全文を裁判所に提出したのです。 その一部が写真「7」です。これだけではよく分かりませんが、翌朝初代が書き直したところによると次のようなものでした。
「一二日午前一一時お伺い 午前十時起きていそいで書き直し一三日二時一一時と思う 幸子に「あす二時だよ」と 一三日夜 神起し賜う 神前へこい 一三日午前二時急ぎ着がえて神前へ しばらくくちゃくちゃ 御聖地と造営着手御伺い 考え考えよ しばし右横へ 方向 守るよ 高天原守らむなれど 時悪し 神守るなれど 遅いよ遅い アマハラ 鎮護せしめん 肚なり ヤマト人 遅いよ遅い 時悪し しばし 時を見よ(一一日夜のこと金星すてぬなれど ここ運つきよ) 神の大ミソギ早足なりし 上 8/25ヤレ 玄岳に心むけさせし時、玄光山とおぬし叫たるが、しかりなれど、あの時は玄は暗し クライ出思い出さしめん為 しばし仮に ヨ丈け秘かにもちて (ヨのみ霊もちて)娘に与えよ 間に合わず 此地 時をまて 8月10日27 所 与えられん 思い立ったら吉日よ もう一度 ほかの仕組で 力 外に うまく そらさんも」
一体この文章は何を意味しているのか。甲子さんは控訴審に出廷して、 「本山の造営が遅れているが、今は時が悪い、娘を二代とせよ、災害がおころうとしているが、皆の力で外へそらさせよう」というのがその意味であると証言しました。 関口さんも同じく法廷で「本山の造営が遅れているが、今は時が悪い、本山はクライ山(高山の方にある)に移すことにし、とりあえず熱海にある三つの神霊のうちヨだけ秘かに娘にもっていかせなさい。 熱海での本山造営は暫く時をまちなさい。災害は皆の力で外へそらさせよう」という意味であると証言しました。
両者、肝心の部分の解釈は全然違います。このような場合、裁判所はどれだけ立入ってこの「秘文」の解釈をすべきなのか。 全くふれてはならないのか。ふれなかったときは、「秘文」はないとして判断するのか。あるいは秘文所持者の主張するとおりに判断すべきなのか。 大いに興味深いところでありましたが、この事件は裁判長からの強い勧告により和解になりました。 この和解において、関口氏が二代教え主として教団の代表役貞であることを甲子氏が認めて控訴をとり下げましたので、関口氏が代表役員であることを認めた一審判決通りに確定しました。 裁判長はこのような線で和解を職権勧告したわけですから、その心証は一審通りであったと思われます。しかし和解でありますので、当然のことながらその心証形成の過程は表示されないままに終りました。 以上が、事件の内容と、それに対する裁判の経過であり、特にその中で、甲子氏側が主張した「秘文」に関する裁判所の判断の仕方をのべてきましたが、 本件を、代理人という立場を離れてみますと、いったいこの時に、裁判所はどういう判断をすべきなのか、大変問題であったと思います。
先にのべました昭和五五年以来の最高裁判所の判決、特に「まんだら」の判決の延長線上で考えた時に、はたして今後、この種の紛争についてどのように考えるべきなのかと、深刻に考えざるを得ないのであります。 つまり板まんだらの事件、あるいは日蓮正宗の静岡地裁判決のような事件も踏まえて考えますと、 宗教上の秘事・秘伝によって後継者の選任を受けたと当事者の一方が主張をした時に、主張だけでもう司法判断は回避されるべきなのかどうか。 主張だけで司法判断を回避するのが無理だとすれば、後継者の指名としてなされた行為が、宗教上の秘事・秘伝になるということを立証する必要があるのか。その場合でも指名行為が外形上存在したことの証明は必要ではないのか。 また、指名行為の具体的内容が宗教上の秘事・秘伝に当るので、それ以上の内容は言えないことについて、少なくとも俗的にみて合理的な理由があるのだということまで 証明しなければいけないのかどうか。これらのことが当然問題になると思います。 一つの極端には、宗教上の教義事項とか、宗教上の秘事であるとかいう主張があれば、もはやそれ自体として司法判断になじまないという考え方もありましょうが、 どうも私のような実務家には不安が生じます。というのは、この事件でも感ぜられましたように、故意に教義的粉飾をこらすということもありうると思われるからです。 しかしもう一つ、反対の極端には、先程の神示の意味内容についても立入って判断すべきであるとの考え方もあるでしょう。 しかしこれまた逆に宗教論争の渦中に裁判所が介入することによって、不当な結果を招来することになります。 この二つの極端の中間に妥当な線が存在するのでしようが、具体的に何処に線をひけるかというとかなり難しい、ケース・パイ・ケースにならざるをえないかもしれません。
しかし、宗教団体に関する紛争といってもその実質は、多分に跡目争い、財産争いという世俗的紛争を伴っていることが多いのですから、 できうる限り教義解釈や宗教的秘事の内容に入らずに、世俗的に十分理解しうる諸事実を判断することによって、裁判所は紛争に対する実値判断をすべきではないかと思います。 本件では、最初に「秘文」があったわけではない。幹部通夜での発表があります。武道館での葬儀の際の発表があります。 これらは、裁判所はもとより通常の世俗人によっても容易にその存在と意味を理解できることです。 ところが、甲子側は、それと正反対の意味内容を有するものとして、「御神示」なるものを法廷にもち出した。 この時に考え方が分かれると思うのです。もし裁判所が判断を回避すべきだとした時に、その法律上の効果はどうなるか。 例えば統治行為論というのがあります。砂川事件の時最高裁がとった考えですが、高度に政治的な行為については、司法判断はなじまないとするものです。 この場合その政治的行為の違法合法について裁判所はふれないわけですから、結果としてはその政治的行為は是認されたのと同じ効果を生じます。 その統治行為理論と同じように考えたときに、「御神示」の内容は主張者の言う通りだとして認めるのでしょうか。それとも「御神示」に関する主張にはふれない、 つまり、なかったとして扱うのでしょうか。前者であれば、甲子氏勝訴です。後者であれば関口氏勝訴です。正反対の結果が生じてしまいます。 私は、このような次元でいきなり「判断回避」をするのはおかしいのではないかと思います。
やはり、理解可能な世俗的事実からえられる心証を中心に考え、もし「御神示」が甲子側がいうように解されるとすれば、その後の甲子例の行動に矛盾がないかどうかを判断すべきでしょう、 そういう形で間接に「御神示」の内容が、果して甲子さんを二代に指名するものであったか否かを判断することは、本件では可能であったと思います。その意味で、私は、仮処分の東京高裁判決の判断は正当であったと考えます。 つまり、御神示の内容について教義的解釈をすることは許されない。しかし、御神示の内容が主張者の言う通りだとすれば、 その他の世俗的諸事実と整合的であるか否かという形での間接的判断は許される。そして整合的でない場合には御神示の内容が主張者の言う通りでないと判断することも許されると思います。 しかし、もし他に重要な世俗的間接事実が存在しないか、存在してもそれだけでは心証がとれず、「宗教的秘文」の内容のみが、紛争判断を左右するような場合には、 宗教法人法八五条の趣旨に則りその内容を判断すべきでなく、従ってその紛争につき裁判所は判断しないことになります。 裁判所は信仰の内容が実質上の争いになっているようなことに介入すべきではありません。それは世俗的権力である裁判権に課せられた制約であります。 もし、本件で「御神示」の内容のみが、何れが教え主すなわち代表役員の地位にあるかを決める唯一の判断事項であったとすれば 、裁判所は、その判断を回避し、関口氏の請求を棄却(あるいは却下)すべきだったでしょう。 私としては、現在のところ、一応このように考えておりますが、冒頭に申しましたように、その点に関する判決はまだ過渡期でありますし、 色々な考え方が成り立ちうると思います。御批判を期待して報告を終らして頂きます。
【写真4の文面】
本部局部課長 方面指導部長 殿 大中小道場長 49.8.8 秘発1号伝達責任者 秘書課長 冨 田 萬 美 (印)
依 命 伝 達 書 初代教え主様御生前の遺言により下記の通り御神示を伝達します �瓮� の み 霊 も ち て 娘 に 与 え よ�燹�S49.6.13御神示 恵珠様の御使命、及び御任務について 初代同様ヨニマス大天津神様の地上の代行者である。 よって主神へのお念じお願い 御神体並におみ霊のご調整 伊都能売様の霊線ツナギ其の他神事一切を取行う。 従って元み霊座を祭主し教団全般を総括し掌理する。 よって教団規則上の代表役員である。 二代様の御使命と任務について 二代様とは、世界本山建立と布教、宣伝拡大の陣頭指揮者であり、表面に立たれるミヤクである。 従って世界本山建立と教線拡大が主任務である。 教団の対外的 表面的分野を分担される 式典等は恵珠様が二代に代行を命ずる事によって 御親拝並に御教示も賜るものとする 詳しくは追示 不取敢御知らせ致します。
【解説】 昭和59年11月17日に宗教法学会でおこなった講演を文章にまとめ、昭和61年に発行された。主に大学図書館に保管されている。 裁判では、4頁にわたる遺言の全文が開示された。そのうち、関口氏側にとって都合の悪くはない内容の部分が本論分で紹介されている。 ttp://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN00107125 恵珠氏側に有利な遺言の内容は、「大聖主」25-26頁と「最後の天の岩戸開き」115-125頁にでている。 『世界総本山 位山 高山』といった遺言の内容は関口氏側にわざと見せようとせず、東京高裁での本訴でやっと開示した。 大野弁護士は、後に最高裁判事になった人物で、学問的にはしっかりした内容の報告である。ただ、これはあくまで自分が勝った裁判についての報告である。 ちょうど医学部教授が、臓器移植手術の成功例について発表しているようなものと同じ、と解釈するべきだろう。また、崇教の世界総本山完成の特別大祭期間中に発表されたのも、意味ありげだ。 光記念館も怪しげな勲章の展示などやめて、光玉氏の遺言を展示すべきだろう。こちらの方がよっぽど学問的価値があるといえる。 最後に、これらの文献の実物をご覧になりたい方のために、お教えしよう。 国立国会図書館所蔵文献のコピーがインターネットで請求し、郵便で送ってもらえるようになった(事前に利用登録が必要である。www.ndl.go.jp)。 特に大野和男氏の論文は、関口氏が受けたおみ霊や、光玉師の自筆遺言メモの写真が掲載されており、ぜひ実物をごらんになってほしい。
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