暴かれた真光日本語版
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| 2004年01月27日(火) |
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『日本ばちかん巡り』への言論弾圧
作家の山口文憲氏は1990年から95年にかけて14の宗教の本山を取材し、レポートを『日本ばちかん巡り』と題して「芸術新潮」に連載した。それが、2002年になってようやく単行本となって出版された。大幅に遅れた理由は、数多くの宗教が単行本化にあたり修正を要求してきたからである。これに関してのいきさつは、単行本の「あとがき」に詳しく書かれてある。1991年に「フライデー」の記事をめぐって、『幸福の科学』の信者が講談社を取り巻くという事件があったため、出版社も慎重な対応をとったのだろう。
「崇教真光」に関しても、教団にとって不都合な場所がみごとに削除改変されている。「芸術新潮」にのった問題箇所と、修正された単行本の内容を原文のまま紹介する。
「芸術新潮」1992年4月号126−135ページ 『日本ばちかん巡り』連載第七回 <崇教真光――種人よ起て 手をかざせ> 山口文憲 (国立国会図書館雑誌記事索引収載)
<129頁>
あるいはこのときの傷手が、まだあとを引いているからだろうか。この教団は情報公開に不熱心で、外部のものにはたいへんわかりにくくなっている。とくに現教え主のプロフィールについてはいまだに発表がなく、お年も、お名前も一切が厚い神のベールにつつまれている。巷間伝えられるところによれば、教え主は教祖のご養女のはずだが、教団の刊行物には、そのことすらでてこないのである。
<135頁>
私は目のまえの教え主の遠い娘時代に思いをはせていた。敗戦から立教までの十四年間のことを考えていた。教外の資料によれば、教え主のお名前は甲子(こうこ)。一説に「さちこ」とも。一九二九(昭和四)年十二月のお生まれというから、敗戦時はまだ十六歳になっていない。山梨県で看護婦をなさったというのは、おそらくその後のことだろう。
一方、救い主は、敗戦当時四十四歳。救い主の戦後の日々は、おぼろげながら輪郭がわかっている。借財を返すために奔走し、建設会社の役員を引き受けたのもこの頃だった。手かざしの元祖ともいうべき世界救世(メシヤ)教に所属して、教会長を勤めるまでになったのも、やはりこの時代である。
しかし、おふたりの最初の出会いには定説がない。やがていつの頃からか、若き教え主は、それが神のお仕組みであるかのように、ひとり道を求めて苦闘する教祖と起居をともにするようになる。あるいは、これが、昭和二十年代の後半のことだったかもしれない。
このとき、教祖は、しようと思えば、神がめあわせたこの若い異性と、そのまま世俗の幸せを求めることもできたはずである。しかし、すでに過去の栄光も捨て妻子も捨てて、残りの人生を利他に生きる決心をした元陸軍中佐は、それをしなかった。また、教え主も、それを求めはしなかった。こうして、惟神(かんながら)の同行二人は、天意のおもむくままに、いつか父と娘になる。
これが、救い主を追慕し、教え主を敬愛する教団内外の関係者たちが長く心にはぐくんでいる、教団の神話時代をめぐるひとつの美しい伝説である。しかし、ほんとうのところは、わからない。いずれ教え主が、ご自身で、イザナギ・イザナミの物語を明かされるときがくるだろう。
真光の祖・岡田光玉の死から今年で十八年、飛騨の山々から雪が消える六月、位山山麓に教祖の奥津城が完成する。
〔解説〕 「芸術新潮」は専門雑誌として評価されており、その記事は、国立国会図書館の雑誌記事索引に収載されている。また、全国522施設の大学・研究所の図書館に収蔵されており、記事の信頼性は評価されている。(私も自分の大学の図書館で閲覧してみて、正直いってショックだった。なお、522施設すべてに92年4月号があるわけではない。) この記事が事実無根であるなら、教団は作者と出版社を告訴すればよい。連載は中止され、著者は作家活動の中断を余儀なくされただろうし、単行本化も実現しなかっただろう。現実には予定どうり連載は完了し、単行本を企画するまでに至ったわけである。やはり「芸術新潮」の記事はきちんとした裏づけ調査に基づいて執筆されたといわざるをえない。
光記念館には図書閲覧コーナーがあり展示に関する文献を閲覧できるとある。国立国会図書館の雑誌記事索引に収載され、かつ全国の大学・研究所の図書館に収蔵されている教団の沿革に関する文献は、当然閲覧可能な状態でないといけない。
昭和20年終戦から昭和34年立教までの14年間は、光記念館の教団史展示においても空白となっている。その間を綿密に取材しレポートした著者に、有能なジャーナリストとして敬意を表する次第である。
なお、昭和20年代は、男性が大勢戦死したため、女性が結婚相手を見つけるのが困難な時代だった。そういう状況下で、井上甲子さん(本名)がこのような生き方を選択したことに対しては、一定の理解を示す必要があるといえるだろう。
国立国会図書館雑誌記事索引 http://opac.ndl.go.jp 大学・研究所の図書館収蔵状況 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN0007184
『日本ばちかん巡り』山口文憲著 新潮社 2002年2月初版 180-202ページ <崇教真光 ―― 種人よ起て手をかざせ>
<187頁>
あるいはこのときの傷手が、まだあとを引いているからだろうか。この教団は情報公開には慎重で、外部のものにはたいへんわかりにくくなっている。とくに現教え主のプロフィールについては細かく発表されていない。
<201頁> その様子をかたわらで見ながら、私はふと目のまえの教え主の遠い娘時代のことを思った。真光の先史時代、あるいは神話時代ともいうべき、敗戦から立教までの十四年間のことを考えていた。
教外の資料によれば、教え主は甲子(こうこ)というお名前だという。これ以外に分かっているのは、生年だけである。ちなみに教え主は一九二九(昭和四)年十二月のお生まれというから、敗戦時はまだ十六歳になっていない。
一方、救い主は、教え主より二十八歳ほど年長だから、敗戦当時は四十四歳。こちらの戦後の日々は、おぼろげながらわかっている。戦時中にこしらえた借財を返すために奔走し、建設会社の役員を引き受けたのもこの頃だった。手かざしの元祖ともいうべき世界救世(メシヤ)教に所属して、教会長を勤めるまでになったのも、やはりこの時代である。
しかし、元陸軍中佐と若き日の教え主の最初の出会いについては定説がない。
いつのころからか、教え主は、残りの人生を利他にいきる決心をした元陸軍中佐の忠実な弟子として、あるいは巫女として、ひたすら仕える道を選ぶのである。こうして、惟神(かんながら)の同行二人は、天意のおもむくままに、いつか父と娘になったのではあるまいか。
これが、救い主を追慕し、教え主を敬愛する教団内外の関係者たちが長く心にはぐくんでいる、教団の神話時代をめぐるひとつの美しい伝説である。
真光の祖・岡田光玉の死からことしで十八年。飛騨の山々から雪が消える六月、位山山麓に教祖を記念する光神殿が完成する。
<202頁>
[注3] 教団からのコメント――194頁の4行目の「抑留敵国民虐待」「BC級戦犯」、また、198頁18行目の「二.二六事件」は、当教団とは一切関わり合いがございません。崇教真光は、愛和の世界の創造、人類恒久平和を目指しております。したがって戦争の問題とは何ら関わりなく、悩み苦しむ一人でも多くの方々が救われ、幸せになってゆくことを願っております。
「あとがき」 <364−366頁>
本書の「はじめに」で、私は、「あえて取材に応じてくれた各教団の度量はたたえられていい」と書いた。しかしいまでは、正直にいって、取り消そうかという気にもなりつつある。
それにしても、このルポルタージュは、紆余曲折だらけだった。まず企画の段階で一苦労あって、原稿にも毎回四苦八苦した。さて本にしようというところでオウム事件に出鼻をくじかれ、ようやく仕切り直しになったと思ったら、こんどは大きなゴタゴタに直面することになった。
せっかく本にするのだから、この際データも新しくしたい。直すところは直して、ついでにしっかりした「注」もほどこしたい。と、こう考えたところまではよかった。
ついてはあらたに情報収集をする必要がある。その場合、たとえば伊勢神宮や出雲大社のようなビッグネームは、公開資料も多く、外部からも比較的自由に情報アクセスができるので、あまり問題はない。しかし、そのほかのケースはどうするか。
こちらは、結局のところ、各教団に直接問い合わせる以外に情報を得る手段がない。そこで、「このたびあれをこういういう本にするので」と、あらためてコンタクトをとったのが運のつきだった。
むろん、なかには、取材の当時と変わらぬ友好的、協力的な姿勢で応じてくれた教団もないわけではない。用語の理解の誤りを懇切にただしてくれたところもある。また、信者数の減少を正直に教えてくれたうえに、本部の所在地の市の人口の変動まで調べてくれた親切な教団もあった。しかし、これはむしろ少数派。当初はナシのつぶてで、そのうちやぶからぼうに「単行本への収載はお断りする」「許可しない」といってくる教団があいついだ。
この反応に、私は少なからず驚いた。そして考え込んだ。いったいなぜだろう。実際、自分でいうのもなんだが、新宗教の世界をこのくらい好意的かつ肯定的に描いたルポルタージュも、そう多くはないのではないか。お前の態度は甘いといって新宗教批判派から文句がつくのならわかるが、まさか当の新宗教から苦情がこようとは。いずれにせよ、「お断りする」といわれて、はいそうですかと応じるわけにもいかない。もとよりこちらは出版の許諾など求めてはいないし、そもそもご許可をいただく筋合いなどありはしない。
こわもての収録拒否が通らないとわかると、つぎなる先方の要求は、それなら部分的削除と書き換えをしてくれという話になった。そこで、こちらはまず、「お気に召さない表現や見解の相違にわたる部分があれば示してくれ。そちらのいい分を『教団注』としてそっくりそのままのせようではないか」という逆提案をした。これに応じてくれた教団もある。しかし、多くは、あくまで隠密裏の削除と書き換えにこだわってゆずらない 。 そうなると、こちらとしても、先方の要求をまるごと突っぱねる以外に選択の道はなくなってくる。でも、ここで話が決裂するとどうなるのか。いつだったかの幸福の科学みたいに、何千もの信者が出版社のビルを取り巻いて、いっせいに呪いをかけたりすることになるのだろうか。
「いいじゃん、面白そう」というまわりの声もあったが、しかし、結局私はこの対決路線をとらなかった。べつに呪いがコワかったわけではない。それよりも、いったい私の文章のどこがどう気に入らないのか、そこにどういう「文化摩擦」が起きているのか――それを知りたい、という誘惑のほうが、私にはずっと大きかったからである。 それに、オリジナルをそのまま単行本化するのならまだしも、私自身、ものによってはずいぶん加筆もし、直しも入れている。そこで私は、先方の要求を値切りに値切ったうえで、顔を立てるべきところは立てようという方針を立て、この思わぬ「言論弾圧」を楽しむことにした。
その際の一字一句をめぐる攻防をここに再録できないのは、まことに残念というほかない。もしそれが可能なら、この本は、確実にいまの三倍は面白くなっていたろう。
なかには、「えっ、どうしてここが?」と首をかしげたくなる要求もままあったが、やはり多いのは、�‘睚兇砲�かわることがら、��教主およびその一族にかかわることがらの二つ。そして要求がいれられないと、「信者感情」なるものを持ち出してきて、「私ども(幹部)はこの表現でもいいんですが、信者たちが承知しません」とナキを入れるスタイルも、おおむね共通だった。
私は本文のなかで、新宗教は日本の文化に深く根をおろしていると書いた。実際にその通りである。聖別されたコミュニティーのなかにも、官僚主義とことなかれ主義の日本があり、もっぱら自分の失点だけを恐れる中間管理職がいて、ひとりではなにも判断のできない日本の「サラリーマン」がいる。しかし、私はそれをとやかくいおうとは思わない。この国の「構造改革」の進展をただ祈るばかりである。
〔解説〕 著者は各教団より「言論弾圧」を受けたとはっきり述べている。単行本202頁には『注』として、「『抑留敵国民虐待』『BC級戦犯』『二.二六事件』は当教団とは一切関わり合いがございません」との教団の見解が述べられている。これは、海外HPで「南京大虐殺」にかかわっていた可能性を指摘されたことに対する反論といえよう。
ところが、初代と二代目の出会いに関しては全く注釈されずに書き換えられている。「あとがき」を読めばわかるように、あきらかに崇教真光は正々堂々と反論することなく、『隠密裏の削除と書き換え』を要求したわけである。つまり、「芸術新潮」の記事は真実だったため、教団としては反論できなかったといわざるをえない。当初の雑誌記事を修正することなく原文のまま単行本化したなら、教団は「事実無根」で突っぱねられるが、一部だけ反論文を掲載させ、反論不能な箇所のみ『隠密裏の削除と書き換え』をさせたとあっては、この箇所は真実だったといわざるを得ない。
もし『信者感情』を崇教が持ち出したとしたら、全く筋違いだ。村上正邦や小山孝雄の指示署名を信者にさせておいて、そんなことが言えるわけがない。これは国立国会図書館の雑誌記事索引に収載され、全国の大学.研究所の図書館に架蔵された専門雑誌への重大な冒涜である。この書き込みを読まれた方は、国会図書館HPより文献コピーを請求し、単行本とじっくり比較精読していただきたい。教団からの「言論弾圧」に対する、著者の最大限の抵抗が理解できるだろう。
歴史事実を出版しようとする者に対して、「言論弾圧」を行うのは神道考古学や博物館学に反する行為である。発掘石器に疑問を抱くものに対し発言をさせようとしなかった、石器捏造犯人と同一次元である。光記念館に展示された教団史は捏造であり、石器の捏造と想念レベルは同一である。もはやこのような団体は、県登録博物館の開設者として不適当である。
教団幹部が『隠密裏の削除と書き換え』を要求した時(オウム事件のしばらく後)は、ブロードバンドの利用者が急カーブを描いて増加し、ネットによる教団批判が急進展をとげるとは全く考えていなかったようだ。所詮は、小山孝雄や村上正邦の逮捕すら予測できなかった連中の集まりだ。
〔参考〕 (1) 宗教団体による出版妨害事件として有名なものに、藤原弘達氏が著した「創価学会を斬る」がある。 http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/991028_faq_komei_sg.html
(2) 人はいま、なぜ新宗教に走るか〔5〕――「世界真光文明教団」ヒトとカネの抗争.分裂。(内藤国夫著) 「現代」(講談社月刊誌) 1987年8月号 338−353頁
<345頁>
世界真光文明教団が、その前身である「L.H陽光子友乃会」を名乗って立教した昭和三十四年当時からの生えぬき幹部であった田中清英氏は、関口栄.二代教え主よりも古参である。それゆえに関口教え主としても崇教局長というナンバー2で厚遇し続けた。
ところが初代の高弟でありながら、田中氏は昭和四十七年五月、初代から追放されて教団を離れている。真偽のほどはともかく、初代の養女である恵珠さんに手を出したからとか、いや、養女は実は初代の側室であり、二人の奪いあいになったとかの噂がとびかう。田中氏本人は、「初代が狂ってしまったので、ついていけなくなった」と周囲の人に語ったことがある。 いずれにしても、三百万円の退職金が支払われての退会だった。
(この記事は、田中清英氏のみならず、依田君美、矢井清勝、津田忠利、黒田みのる各氏による分派独立も詳しく解説しており、一読の価値がある。ただし、内容はやや関口氏寄りとの印象を受ける。)
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