コミュニケーション。
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努力が嫌いなので無教養に育ってしまったけれど、 絵本についての本を読むのは好きだ(ついていけるとは言ってない)から、 渡辺茂男さんの『すばらしいとき 絵本との出会い』を今読んでいる。 渡辺さんは若くしてアメリカの図書館で働いているとき、 あの名作『もりのなか』の著者、エッツと邂逅されたそうだ。 『もりのなか』は私が繰り返し母に読ませたと、母が言っていた。 渡辺さんのご子息たちも大好きで繰り返すうちにぼろぼろになり、 作中当時は二冊目をお子さんが読んでらっしゃるとある。
『もりのなか』は、シンプルな絵とシンプルな文章。 無理矢理カテゴライズすると赤ちゃん向けの本だけど、 息子はそういうのが好きだし、娘もまだ好きだから大丈夫だろう、 図書館で借りよう!と思い立った。 時間もなかったので開かずに借りて帰り、娘と一緒に開いた。
するとどうだろう。 確かにシンプルだけど、私の記憶、印象よりずっと文字が多い。 森のなかで出逢う動物たちが、「ぼく」と出会い、ついてくる。 これが繰り返され、最後はみんなで遊ぶ。 ワンフレーズの繰り返しは幼児向け絵本の基本だけれど、 私のなかには、フレーズも、文字も、母の声すら残っていなかった。
裏腹に、目の前にはもりがひろがってゆく。
くつをはいているぞうさん。 じゃむをおいしそうになめるくまさん。 あぁしかし、本当にこうだったか? 本当にこんな絵本だったか? ぞうさんもなにか食べていなかったか?
文言を読みながら、ぬぐいきれない違和感がある。 母の声がないから、私の読み方が合っているのかわからない。 コンパスをなくした船のような思いだった。 ただ、幸いなことに娘は気に入ってくれた。
読み終えても、違和感だけが残った。 だいたい私は、絵がメインの文字の少ない絵本だと思っていたのだ。 「じゃあじゃあびりびり」のような。 だから赤ちゃん向けだと思っていたのに、きちんとセリフのある幼児向けだった。 訳者が違うのかとさえ思った。 しかしそんなことは常識では考えられない。
推理されるものはひとつだった。 私が『もりのなか』を繰り返し読んだとき、私のなかに文字はなかったのだ。 おそらく2、3歳の私。絵だけの世界。 少し大きくなった私は新しい本へいき、文字を知り、 もっと長い本へ行き、『もりのなか』に触れることはなかった。 それっきり、赤ちゃん向けの本だと思い込み、読まなかった。
それは、十分、もりのなかを楽しんだのだろうとも思う。 そして今回に至った。
私のなかの『もりのなか』は、文字を知らない私が遊んだままに、残されていた。 まさしく、「子どもは絵を見ている」。 そのこと体感できたことが、言葉にならない感動だった。
絵の世界は、なんて無垢で、活き活きとしてるんだろう。 ライオンさんもぞうさんもくまさんも、確かに生きている。 言葉はない。 文言からすら離れた、私だけの世界。 少しきいろがかっていて、あたたかい世界。 この年になって、自分のなかの美しいものに触れられるとは思っていなかった。
息子ははやくから自然と文字を覚え、小学生になった今は、 すっかり文字を追いかけている。 彼が大きくなって今読んでいる本を思い出すときは、私が母の声を思い出すのと同じだろう。 それでも彼が聞いてくれる限りは読みたい。 彼だけの世界にいざなえたらいい。
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