�鷁里辰突戮譴觴臧悗淵轡Д嫺�記�鵝前藥�録〜...カロリィ

 

 

∧

吐露。 - 2013年03月12日(火)

長文です。
暗いです。

*****

ふと、2011年の3月って、どんな日記書いてたんだろうなあと思ってログを
たどってみたのですが、あの3月はただの一度も日記を書いてませんでした。

うーんそっか。
何となく震災の話題は避けて書いてた気がするなあ。
覚えてることだけでも、書き出してみるかな。

*****

住まいは首都圏です。
震度5弱、とかだったと思います。
まあそこそこ揺れました。

とは言っても、後からニュースで知ったことと比べると、表現としては
「ほとんど揺れなかった」と言っても過言ではないのかもしれません。
無造作に積み上げてあったトイレットペーパーの一番上が、ドサリと
トイレの中で落ちた音がしただけだったから。

大きな家具類や家電も、何一つ被害はありませんでした。
停電にはなりましたけどね。
それも夜寝る前には復旧しました。

あ、地震だ。揺れてる。と気付くと同時に、大きいぞ…そして長い!と
いうようなことを考えていました。
テレビをつけていましたが、揺れの途中でプツンと電源が落ちました。

私と、当時3歳だった長男と、生後半年ほどの次男。
ちょっと離れた場所にいた長男は、半泣きで駆け寄って来ました。
とりあえず2人をこたつの下に押し込め、ゆ〜らゆ〜らと続く長い揺れの中、
これが収まったら何をするべきかと考えを必死でめぐらせました。

揺れが一瞬収まったとき、私は立ち上がって防災・非難用具を詰め込んだ
リュックを取り出し、バッグをもう1つ取り出してすぐ食べられるような
お菓子や飲み物、子供たちをあやすおもちゃや絵本を少量適当に入れ、
エルゴ(抱っこひも)に次男を装着し、長男にも上着を着せました。
玄関にあったスニーカーも近くに置き、いつでも戸外に逃げられるように
準備しました。
その間も、時々ゆら〜りゆら〜りとはしていた気がします。

そうこうしているうちに、共同廊下から(ウチはマンションなので)人の
声が聞こえてきたので、私もドアの外に出ました。
そしたら、着の身着のままの状態の人が何人も廊下に出てアワアワしていました。

いやいやいやいや。
今の間に、できることあったでしょ!?
と内心ツッコミましたが、阪神大震災を身近に感じていたかどうかの違い
だろうかと思いました。
出身は関西圏なので、阪神大震災のときもそこそこ揺れました。

首都圏に住むようになって丸9年経ちますが、3.11以前の首都圏住まいの
人たちの防災意識は、もんのっすごっく低かったように思います。
昔の同僚や、周囲にいるママ友にそれとなく防災グッズは準備しているかと
聞いた事はあるけれど、「しているよ」と即答した人はゼロでしたから。

それでいて、最低限のものをリュックに詰めて常備している私のことを
神経質だとか心配性だとか、笑う人さえいたのを覚えています。

それはそうと、あの日揺れたのは午後2時半とか3時前ごろでしたよね。
旦那の職場はチャリンコ通勤5分の場所なので、30分もすると帰宅して
きてくれました。

自分たちは無事、な状況ですから、まさか自分たちが関西圏にいる身内たち
に心配されている立場であることには気が付かず、誰かに連絡するという
考えは浮かびませんでした。
しばらくすると母から携帯に電話がありましたが、
「無事だよ。何ともないから。それより、携帯の充電が貴重だから、もう
電話もメールもしないで」
と言って切りました。
非情でしょうか(苦笑)

午後2時3時というと、乳幼児を抱える専業主婦は、子供たちのお昼寝の
都合やなんかで、用事さえなければ家にいる時間帯だと思います。
なので外は一切出なかったのですが、旦那が帰宅してくるときには
川の水位がいつになく低かったそうです。
後から思えば、津波の予兆だったのでしょう。
しかしそんな知識もありませんでした。

暗くなっても停電は続いていたのでろうそくの光で過ごし、ガスは使えた
のでお湯を沸かしてインスタントラーメンで夕食を済ませました。
電気がないと、あんなにもやることがないんだなって現代病を痛感した
瞬間でもありました。
テレビもない、ネットもない、時折り携帯のワンセグで情報を得たり
していたけれど、小さな画面の中で津波が押し寄せてくる映像ばかりが
流れていました。

それでも夜9時か10時ごろには停電も復旧。
ヤレヤレとばかりにお風呂にお湯を張り、身体を洗うこともできました。

当時はこんなこと↑、書けなくてね。
私が感じた恐怖や苦労など、非にならないようなことを経験した人たちが
いっぱいいるのに、っていう何だか変な罪悪感もずっとありました。

翌日以降は、スーパーの棚から食品が消えうせるという事態も起きたようです。
なので、あれだけ毎日通っていた商店街にも、震災後1週間は一度も足を
運びませんでした。

まあそれも、パルが来てくれたからなんですけど。
だから買い物も行かずに食いつなげたんですよね。

たまたまお米も30kg入りの袋を買ったばかりだったので、その心配も
ありませんでした。
震災から10日ほどした頃、いつも配達をお願いしているお米屋さんの前を
通りかかると人だかりができていたのです。

お店の棚は、かなり品薄でした。でも米屋の奥さんが私の顔を見るなり
「カロリィさん!!カロリィさん!!お米あるの?大丈夫??
子供たち食べる分あるの??」
と大声で聞いてくれたのです。
「大丈夫です。しばらくの間、ありますよ」
と答えると
「お得意様の分は取ってあるからね!!いつでも持って行くから!!
安心して!!」
と人をかき分け、叫んでくれたのでした。

もう、ありがたいやら何やらよく分からない感情でした。
ネットでばっかり安いもの物色するんじゃなくて、地元の個人商店と繋がり
を持っておくことがこんなにも大切なことだったんだって気付かされました。

ずい分使い古された言葉ですけど、私が一番「絆」を感じた出来事ですね。

「私なんて何の被害も被ってないんだから、ホントは言いたくないんだけれど」
の出来事の中に、「あの日以降、しばらく頭痛と肩こりが酷かった」という
のがあります。

ホントにホントに、そんなことを言うことすら罪悪感を覚えて、日記にすら
書けなかったことなんだけど、実際頭痛と肩こりがしばらく続きました。
数日間、身体中ガチガチに凝り固まって、あまり物をよく考えられなかった
ような気がします。

「どういうふうに毎日を過ごしたらいいんだろう」と旦那に漏らすと
「普通でいいんだよ、普通で。今までどおりで。」
と言われたのですが、今までどおりの普通がどんなものだったのかすら
考えられない状態でした。

ご飯食べて、洗濯して掃除して、子供たちを外遊びに連れて行って、帰宅
したらお昼食べて昼寝させて、買い物行って夕飯作って食べて風呂入って
寝る、ていう生活だったんですけど、何をするにも「こんなことしてて
いいんだろうか」ばっかり考えてましたね。

ゲラゲラ笑ってちゃいけないじゃないかとか。
幸せな気持ちになっちゃいけないんじゃないかとか。

一時、そんな思考に陥ってました。
私にしては珍しいことです(苦笑)

次第に「普通」を取り戻しましたけど。
今でも、ニュースで地震や津波のことが流れると、肩がこることがあります。
ここんとこずっと特集や何かが流れてたんで、体調悪かったです。

実は、宮城県の女川に住んでいた旦那の親戚が津波に流されて亡くなりました。
厳密に言うと、従兄本人の奥さんとその子供、の2人です。

1回か2回しか会ったことなかったけど、それでも子供同士遊ばせたり
したし、奥さんは私と同年代でした。
震災直後に2人が行方不明だと聞かされ、何週間もした後、先に奥さんの遺体が
見つかり、さらに数日後子供も見つかりました。
当時は葬儀場や火葬場がいっぱいだったらしく、火葬できたのはさらに
もっと後のことでした。

従兄本人は仕事中で高台にいたため、1人だけ助かりました。
従兄の父親も(私たちから言うと叔父)、心労のためか持病が悪化して
その後すぐに亡くなりました。

なので2011年の年末には3人の名前が書かれた喪中はがきが届き、何とも
言えない気持ちになったのを覚えています。

やっぱり、自分と重ねて考えちゃうよね。
夢、見たもん。
津波が来て、子供たちと一緒に逃げてるんだけど繋いでた手が引き離される夢。

今もね、コレ書きながらめっちゃ肩こってます。
なので、もう終わる。



...

∨




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

Mail