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2021年04月05日(月) うちの子になってね(中編)

※ 前編はこちら

むしむしと気温の高い朝だった。リビングの掃き出し窓の雨戸を開けると、ちょこんはいつものように庭にいた。
「おはよう。今日も暑くなりそうだね」
と声をかけ……ん?数メートル離れたところにいるちょこんの背中に白いものが見える。なんだろう。
やがて定位置の沓脱石の上にやってきたちょこんを見て、びっくり。腰からしっぽにかけ、ごっそり毛が抜け落ちていたのだ。まるでバリカンで刈ったように幅五センチ、長さ十五センチほどの帯状に剥げており、白く見えたのは露わになった地肌だった。
昨日はこんなことはなかった。一晩のうちにいったいなにが。
「まさか、虐待……?」
それなら体に傷があるかもしれない。手足の動きも確認しなくては。
驚いて逃げてしまわないよう、玄関のドアをそっと開けた私は小さな悲鳴を上げた。ポーチに猫の毛が散乱していたのだ。
ちょこんのそれが人間によるものでないとわかりほっとしたが、ここでなにが起きたのか。猫同士のケンカ?いや、それなら争う声が聞こえるはず。
とにかく様子を確かめようとちょこんに近づくと、沓脱石からぴょんと飛び降りた。運動機能に異常はなさそうだ。目立った傷や出血は見当たらないことも確認できた。
私は背中の写真を撮り、かかりつけの動物病院に駆け込んだ。

「ノミによるアレルギー性の皮膚炎でしょう」
激しいかゆみのために過度のグルーミングをしてしまうことが脱毛の原因だという。体についたノミを駆除し、皮膚の炎症を鎮め、掻痒感を抑える薬を内服すれば治るそうだ。
が、問題は二メートル以内には近寄らせてくれない猫にどうやってそれを行うかだ。ノミの駆除薬は首の後ろの毛をかき分けてスポイトで垂らさなくてはならない。鎮痒消炎のためのステロイド剤は苦いためエサに混ぜても食べてくれないだろうが、口をこじ開けて飲ませることができない。
搔きむしった傷から菌が入って感染を起こすこともあると言われたが、どうしてあげることもできない。うなだれながら病院を後にした。
翌朝、庭のあちこちにまた大量の毛が舞っていた。ちょこんが一心不乱に背中の毛を咥えては引っこ抜いている。剥げは昨日よりあきらかに広がっていた。
「このままじゃ因幡の白うさぎになっちゃうよ……」
外で暮らしているのに毛がツヤツヤで、すごいなあ、たくましいなあと私はいつも感動していた。その背中がぼろ雑巾のようになっている。
“通い猫”ちょこんを七か月間見守ってきたが、うちの子にと考えたことはなかった。ずっと野良で生きてきた猫にとって「自由」に勝る幸せはないのだろうと思っていたから。
しかし、砂の上で転がり背中をこすりつける姿を見て、放っておくことはできなかった。
「あなたの意思を確認せずに勝手に決めてごめんね」
ちょこんを保護して治療を受けさせよう。心が決まった。

インターネットで購入した捕獲器に細工を施す。もし足やしっぽが挟まれても大ケガをしないよう、踏み板を踏んだら閉まる扉を布でくるんだ。中で暴れても体を傷つけないよう、網の内側にダンボールを貼った。
ちょこんは避妊・去勢手術済みのさくら猫である。以前捕まったときのことを覚えていたのか、沓脱石の上に設置した捕獲器の中のごちそうになかなかつられなかった。



しかし空腹に耐えかねたのか、ガラス越しに息を詰めて見つめていた私がちょっと離れたあいだにそろりそろりと入っていたらしい。戻ってみると、上手に踏み板をまたいでちゅ〜るを舐めていた。食べ終わると慎重に捕獲器から出てくる。えさを入れ替えても、踏み板は決して踏まない。
「賢いなあ、これは踏んじゃだめってわかってるんだなあ」
感心半分、あきらめ半分で見ていたそのとき。私がうっかり立てた物音にびくっとしたちょこんの足が踏み板に当たった。
ガシャン!と大きな音がした。ちょこんは出口を求めてパニックになり、それを見て私も動揺した。
「『このニンゲンは怖いことはしない、ここは安全な場所』って思ってくれてたよね。なのにごめんね、ごめんね」
信頼を裏切ったと思うと、胸が痛んだ。
興奮しているちょこんをキャリーバッグに移すことはとてもできず、捕獲器のまま動物病院へ運んだ。

「赤いブツブツが見えるでしょう、やっぱりノミによる皮膚炎ですね」
スタッフによって手際よく洗濯ネットに入れられたちょこんは、おとなしく診察を受けてくれた。首に薬を垂らしてもらい、これでノミの駆除は完了。つづいてウイルス検査とワクチン接種。健康チェックの結果は問題なし。
「一歳くらいのメスですね」
と言われ、驚いた。右耳をV字カットされているから、ずっとオスだと思っていた。
「以前はオスは右、メスは左をカットしていたんですが、いまは区別していないんですよ」
そうだったのか。じゃあわが家に迎える四匹目の猫にして、はじめての女の子だ!
後編につづく)

【あとがき】
どうして洗濯ネット?と思った方がいるかもしれませんね。興奮している猫を洗濯ネットに入れると落ちつくことが多いため(猫は狭いところを好む傾向があり、やわらかい布で体を固定されると安心するらしい)、動物病院ではそれに入れた状態で網目から注射をしたり、必要な部分だけチャックから出して診察したりするんですね。私も初めて見たときは驚きました。ちょこんもとたんにおとなしくなりました。