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2007年10月23日(火) 読まず嫌い

日経新聞の夕刊に、何人かの作家が持ち回りでエッセイを担当している「プロムナード」というコーナーがある。
ただでさえ私にとっては読むところの少ない日経新聞である(夫は隅から隅までそりゃあ丹念に読んでいるが)、エッセイ欄くらいは愛読しそうなものだが実際はそうではなくて、読む日と読まない日にはっきり分かれている。作家によって読んだり読まなかったりしているのだ。
といっても、その日の書き手が誰かであるかをチェックして読むか読まないかを決めているわけではない。あいにくどの日を担当している作家もこの欄で初めて名前を知ったくらい、私にはなじみのない人ばかりなのだ。
とりあえず最初の数行を読み始め、そのままノンストップで読み終える、あるいは途中で「やーめた」をした後に初めて書き手を確認するのであるが、最近「この人の文章のときは毎回最後まで読んでいるけど、この人のときはいつも読んでいない」というパターンがあることに気がついた。

作家の好き嫌いで読む、読まないを決めているわけでないなら、私はなにを理由にその区別をしているのだろう?としばらく考えた後、ひとつ思い出したことがあった。
林真理子さんの『文章読本』にあった、「読んでもらえる文章とそうでない文章は『字面』のよしあしで決まる」という指摘である。ぱっとページを開いたときの印象で読む気が湧いたり失せたりするというのだ。
字面とは漢字・ひらがな・カタカナのバランス、改行の按配のことであり、宮部みゆきさんの小説の一部を引用して「ほれぼれするほど美しい字面」と絶賛していた。
そのとき私は林さんの言う「美貌の文章」というのがいまいちピンとこなかったのだけれど、一週間分のプロムナードを目の前に並べてあらためて考えてみたところ、「たしかに字面のよしあしというのはあるかもしれない」という気がしてきた。
書き出しの数行に目を通しただけでも自分の興味のある内容が書かれてありそうか否かは見当がつく。けれども私の場合そのこと以上に、ぱっと見て「読みやすさ」を感じられるかどうかがネックになっているようだ。
新聞だから誰の文章も字体や行間は同じだというのに、喉ごしよくするすると入っていくものもあれば、読み通すには非常に根気のいるものもある。話題の硬軟ももちろん関係あろうが、それ以前に私は漢字率の高い文章には食欲が湧きにくいらしい。
もしかしたら為になることが書かれてあるかもしれないぞ、この後ものすごく面白い展開が待っていたりしてね……と思いつつもその気にならない。これが「相性」というものなんだろう。


先日、ある場所で「日記書きさんに100の質問」に答える機会があった。一時期流行ったバトンのひとつだ。
その中に「好き、面白いと思うのはどんな日記?」「嫌い、つまらないと思うのはどんな日記?」という問いがあった。トルストイの「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はさまざまに不幸である」という言葉ではないけれど、後者の回答は前者のそれに比べるとバラエティに富んだものになるのではないだろうか。

私にも読まないことにしている日記のタイプというのがひとつある。ネガティブ思考の人が書くものだ。
人間生きていれば愚痴をこぼしたくなったり誰かの悪口を言いたくなったりすることはある。けれども、目を皿のようにして不愉快なネタを探しているのではないかと勘ぐりたくなるような人もときどきいる。
日記リンク集の新着リストを開くと、不機嫌顔がありありと目に浮かぶような攻撃的な一行コメントが見つかる。書き手の名前を確認すると、「あら、またこの人……」。
そういう日記も何度かは読んでみたけれど、「問題意識を持つ」ことと「粗探しをする」ことはまったく別物だなと感じた。
先の100質の中には「あなたの日記、『喜』『怒』『哀』『楽』のどれが一番多いですか?」という質問もあったが、今日はこんな面白くないことがあった、気分の悪いことがあった、誰が嫌い、彼が嫌い、と「怒」ってばかり、あるいはマイナス思考で後ろ向きな日記は苦手だ。そういう部分は誰の中にもあるとはいえ、始終不平不満を口にしている人が周囲にいたらうんざりしてしまうものである。web日記だって人に読んでもらうものなのだから、「抑制」というものもある程度はほしい。
……というのは、もちろん私の好みの問題に過ぎない。正直でなにが悪い、人間らしくていいじゃないかと思う人もいるのだろうが、私は家族でも友人でもない人の愚痴を延々聞いていられるほど心が広くないみたいだ。

「書き手が嫌いで読むとイライラするんだけど、気になってつい読んでしまう」という話をよく聞くけれど、私は作家のエッセイでもweb日記でも好感を持てない人が書いたものは一切読まない。「この人、好かんわ」な人の生活や考えていることに興味など湧かない。
それに、私にとってそれらの読み物は精神的な意味での「おやつ」。口に合わないとわかっているものにわざわざ手を出して「やっぱりマズイ!」とけちをつけるのもおかしな話だ。
それは「食事」ではないのだもの、好き嫌いがあったっていいじゃあないか。と開き直って、今日も好きなものだけを選って食べる私である。

【あとがき】
ちなみに、100質の中の「あなたの日記、『喜』『怒』『哀』『楽』のどれが一番多いですか?」の私の回答。「喜怒哀楽というより、『真顔』が多い気がする」でした。えー、どうでしょうか。