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2006年07月03日(月) 「常識」の個人差

七月一日付けの読売新聞の暮らし面に、三十代の女性読者からのこんな相談が載っていた。

高校時代からの親友の娘さんが小学校に入学したのでお祝いを贈ったのですが、なんの連絡もありません。以前、彼女の誕生日にカードやプレゼントを贈ったときもなしのつぶてでした。
私は決してお返しの物がほしいわけではなく、「届いたよ、ありがとう」の言葉がほしいのです。なにかをもらったらお礼を言うのは常識であり、マナーだと思うのです。それとも、「贈り物をしてやったのに」という私のエゴでしょうか。
この気持ちをどうもっていけばいいのかご助言ください。


私はある百貨店の配送お問い合わせセンターというところで仕事をしたことがある。中元、歳暮の時期にお届けを承ったギフトについてのお客からの問い合わせに応対する部署であるが、私がそこで働いて初めて知ったのが、
「世の中には物をもらっても速やかにお礼を言わない人がこんなに多いのか!」
ということだ。

一日に何十本もとる電話の大半が「先方からなにも言ってこないんだけど、ちゃんと着いてるの?」という内容。パソコンに伝票番号を入力すると荷物がどこにあるかたちどころにわかる仕組みになっており、十中八九お届け済みである。
が、そう伝えても電話を切ってくれない人は少なくない。
「そんなわけはない。一週間も前に届いているのならとうに連絡がきているはずだ」

しかし配達が完了した伝票はすべて保管されており、それを見れば受領印があることだけでなく、荷物を受け取った人が何十代の女性だったか、男性だったかということまで判明する。配達員は伝票の控えに必ず受け取り人の情報を「30女」「50男」という具合に残すからだ。
そして、それを依頼主にファックスしてようやく納得してもらえたということがしばしばあった。
言い換えれば、彼らにとっては誰かから物をもらって「届いたよ」も「ありがとう」も言わないというのはそれほど考えられないことなのだ。

話を戻そう。
私はいつもこの人生相談欄を読むとき、自分だったらどう答えるかを考えてから回答者のアドバイスを読むことにしている。紙面の回答が“正解”というわけではないけれど、自分とは異なる意見のときに「そういう考え方もあるのか」「なるほど、そっちのほうが賢いかもね」と思うことがままある。
さて、今回の回答者はデザイナーの森英恵さんだった。

人から受けた好意に感謝の気持ちを伝えるのは常識、その方はマナーに欠けています。しかしもしかしたら忙しくて、お礼の電話をしなければと思いながらもできていないのかもしれません。
お祝いを贈った、そのことは自分自身の温かい気持ちということで、相手からのリターンは求めないほうがよいと思います。


私が用意した答えとほぼ同じだ。「してあげた」と思うから悔しくなる、空しくなる。「自分がしたかったからしたんだ」と思えば、腹が立つこともないのである。

……と言いながら。
われながらそのアドバイスはあまり現実的ではないなあと思う。そんなふうに思えるくらいなら最初から相談などしていないだろう。
相手に期待しない、すなわち無欲になるというのは口で言うほど簡単なことではない。「相手の喜ぶ顔が見たい」という自分の欲求を満たすためにしたことだ、お礼を言われたくてしたわけじゃない、ということは十分わかってはいるのだけれど、それでも釈然としない気分になってしまう……。そういうものではないだろうか。
年賀状一枚、メール一通でさえ送った相手から届かないと、「どうして返事がこないんだ」「もう書くのはよそうか」と思うことがあるのだ。物やお金を贈った相手からなしのつぶてではやりきれない気持ちになるのは無理もない。

* * * * *

では、なろうとしても無欲になれない私たちはどうしたら心のもやもやを払うことができるのだろうか。
「常識は人によって違うのだ」と割り切ること。悪気はないのだが感謝の気持ちが薄い人、礼節に無頓着で連絡もお礼も必要ないと考えている人もいるのだ、という現実を素直に受け止めることだと思う。

「心からのお祝いであれば、お礼の言葉があろうがなかろうが気にならないはず」
そうは言っても、付き合いで誰かになにかを贈る機会というのは意外と多い。そういう場合はなおのこと、「届いたよ」「ありがとう」がないとカチンときたりがっかりしたりするだろう。
が、それでも自分は自分の常識に則ってすべきことはきちんとする。贈るべき相手には贈り、礼を言うときは言う。そしてそれ以上のこと------相手に対して「受け取ったらふつうはその日のうちに電話をかけるか、礼状を書くかするよね」というようなこと------は努めて考えないこと、である。
先日友人と会ったら、「夫の同僚が手土産も持たずに家に遊びに来た」とぷりぷりしていた。
「ふつうは菓子折りのひとつも持ってくるもんじゃない?いい年して手ぶらで夕飯食べに来るなんて……」
もちろん彼女は菓子がほしかったのではなく、訪問宅への気遣いのなさにあきれているのだ。彼女の言い分はよくわかる。
でも、「ふつう」には個人差があるのだ。

お礼がなかったからといって、手土産がなかったからといって、いつまでもわだかまっていることはない。
「いろいろな人がいるんだなあ」
常識の差があまりに大きい人とはおのずと付き合いが疎遠になっていくだろう。それでよいではないか。