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2006年01月16日(月) メードさんのいる暮らし

出張中の夫からメールが届いた。第二の人生を海外で送りたいと考えている人たちのためのメールマガジンの記事の転送である。
彼はリタイアしたら雪のある国に移住してスキー三昧な暮らしをするという夢を持っており、「六十にもなってから言葉で苦労したり、長年の友人のいない寂しさを味わったりするなんてごめんだわ」な私を洗脳すべく……かどうかは知らないけれど、毎回転送してくるのだ。

さて、今回の内容は「東南アジアの国でのリタイアメント・ライフの勧め」だったのであるが、冒頭にこんな一文を見つけた。
「物価水準の安い国でメードを雇って暮らしてみたいとお考えの奥様も多いことでしょう」
えー、そうかなあ?と首をひねる私。
日本での年金暮らしは大変だから、物価の安い国に移住してゆとりある老後を送りたいと考える人がいるのは理解できる。しかし、メードのいる暮らしに憧れている日本人がそうたくさんいるとは思えない。


四年前、女四人で香港旅行をしたとき、現地ガイドの女性がこの国では夫婦共働きが当たり前で、既婚女性の八割が仕事を持っているという話をしてくれた。
「大人の女性で仕事をしていないのは年配の人か小さな子どもがたくさんいる人くらいのもの。日本の主婦みたいに子どもとテレビの相手をして一日を過ごすということはありません」
と言うので、家事と育児と仕事をこなすなんてこちらの女性はスーパー主婦なんだなあと感心したら、そうではなかった。香港の多くの家庭では月六万円ほどでフィリピン人やインドネシア人の住み込みのメードを雇い、炊事に洗濯、掃除に子どもや老親の世話といった家の中のことをすべてさせているというのである。
香港の女性には専業主婦になって家事や育児をするという考えは毛頭なく、メードにそれらをまかせて自分は外に働きに出るのが一般的なのだそうだ。

「ということは、あなたの家にもメードさんがいるんですか?」
「もちろんよ。いまごろは息子に夕飯を食べさせているでしょう」

私は大いに興味を持ち、旅行中、彼女に“メードのいる暮らし”について質問攻めにした。そうしたらとても面白い話を聞くことができた。
人口密度世界一の香港の住宅事情は劣悪だ。かの地を旅したことがある人は目眩がするような高層マンションが林立している風景を思い出すことだろう。土地がないため、ビルは上へ上へと伸びるしかないのである。そして家賃は東京以上に高い。
そのため、五十平米の2DKに二世代、三世代の家族がひしめきあって暮らしているという状況もめずらしくない。よってメードに個室を与えられない家も少なくなく、ガイドさん宅では子ども部屋で寝てもらっているそうだ。
しかし、夜だけ台所に簡易ベッドを置いたり、家族が寝てから居間のソファを使わせたりしている家もあるとのことで、「うちは決して悪い待遇ではないのだ」と彼女は言い張る。

「でもそれじゃあメードさんにも雇い主にもプライバシーがないですね」
「だから、日曜日には外出してもらうの」

これを聞き、私はそうだったのか!と膝を打った。
大学時代に初めて香港に行ったとき、軽く百人は超えていると思われる大量のフィリピン人女性が広場でシートを広げ、お弁当を食べたりカード遊びをしたりしているのを見て、「なんの集まりなんだ!?」とびっくりしたことがあったのだ。なるほど、週に一度の休日を家でのんびり寝て過ごす……というわけにいかないメードさんがあちこちの家から集まってきて、あの状況になっていたわけである。

この時点で、日本人は少なくとも香港ではメードを雇うことはできないな、と確信した私。
だって、仮にも一緒に暮らす人を台所に寝かせたり、家族団欒するからといって日曜日に家から追い出したりなんてことが私たちにできるだろうか。

* * * * *

赤の他人を家に入れることにはプライバシーの問題以外にもいろいろと不具合があるようだ。
家人の留守中にテレビを見たり、昼寝をしたり、ボーイフレンドやメード仲間を家に呼んだり。もっとひどいメードに当たった家では金品を盗まれたり、子どもを虐待されたりといったことも起こるらしい。
情けをかけると働かなくなるため、厳しく接しなくてはならない。細かく指示を出し、いちいちチェックをする。テレビと私用電話はもちろん禁止。家のすみずみまで知られているので、用心のために彼女が送る手紙の宛先を把握しておかなくてはならないし、届いた手紙も本人に渡す前に内容を確認する必要がある。
話を聞きながら、そういう生活を想像しただけでぐったりとなる。“わが家”でそんな緊張感を強いられるなんて、私にはとても無理だ。いや、仕事場では人を使うことに慣れていても、家でも“ボス”として振る舞うことができ、かつそれを負担に感じない日本人はそういないのではないだろうか。

が、それよりなにより、私が「この先なにかの間違いでそういう社会システムの国に暮らすことがあっても、うちはメードさんなんてぜったい来てもらわない」と思う理由。
それは、家族ではない妙齢の女性が同じ家にいるという気持ちの悪さ。
私ならおちおち出張や旅行にも出かけられないのでは……と思うが、香港の女性はそちらの心配はしないのかしらん。
(これについて尋ねるのはさすがにはばかられた)