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2005年12月05日(月) 自分が死んだ後のこと

※ 前回の「人間はどこまで望むことができるのだろうか」から読んでね。

テキストを書き上げると毎回それなりに達成感があるものなのだが、前回はちょっと違った。アップした後もずっと、「まだ終わっていない」ような気分が続いていた。
原因は、テキストの最後に「いずれ書いてみたい」と書いたこととは別件である。

* * * * *

前回紹介した衆議院議員の河野太郎氏のサイトのトップページに「ワンクリックアンケート」というコーナーがある。
質問は、「もしあなたが脳死になったら、移植のために臓器を提供しますか」。選択肢は「提供する」「提供しない」「わからない」の三つだ。
テーマは途方もなく重いが、アンケート自体は“ワンクリック”の名の通り、お気軽にどうぞというノリのものである。私もやってみようと思い、マウスを握った。

……のだが。
十分が経過しても、私はどこにもチェックを入れることができなかった。とりあえずの答えでよいことはもちろんわかっている。しかし、それすら見つけられなかったのである。
「提供したいと思うか」
「思わない」
「では提供したくないのか」
「いや、そうではない」
そう、提供するのは嫌だとも嫌でないとも思えないのだ。ほんのわずかでも天秤が傾いたほうに回答しようと思うのに、完全に水平なのである。

たとえば、これが臓器移植でなく献体についてのアンケートであったなら、私は「提供しません」ときっぱり意思表示することができる。
「献体」をご存知だろうか。医学生の解剖学実習のために自分の遺体を無条件・無報酬で提供することだ。
生前に然るべき機関に登録しておく点や遺族の承諾が得られなければ意思が実行されない点がドナー登録や臓器提供が行われるプロセスと似ているのだが、私が「献体は嫌」と思う理由ははっきりしている。
ひとつは、「大事に扱ってもらえるのだろうか」「感謝してもらえるのだろうか」という部分に心許なさを感じること。実際、私は解剖学者であり東京大学名誉教授である養老孟司さんの講演会で、献体された遺体の取り扱いについて遺族からクレームがつくことがあるという話を聴いている。
もうひとつは、献体としての役目を果たした後、遺骨が家族に返還されるのに二、三年かかること。そんなにかかるのでは夫や子どもに寂しい思いをさせてしまいそうだ。

臓器提供に話を戻す。
ドナーとして体を提供するのであれば、大事に扱われないかもとか感謝されないのではといった心配はしなくて済む。レシピエントとその家族は涙を流して喜んでくれるに違いない。また、臓器摘出の手術にかかる時間は五時間前後というから、遺体は翌日にも家族の元に返るだろう。
そんなわけで、献体登録を考えたときのような具体的なNOの理由は見つからない。
……にもかかわらず、ドナー登録に前向きな気持ちになるかというとそうはならないから、私は不思議でたまらないのだ。
脳死が人の死であるかどうかは議論の分かれるところらしいが、私は私自身についてのみであれば「その状態になったら、死亡と判定していただいてかまいません」と言うことができる。だから、臓器移植に反対する人たちがしばしば唱える、「まだ死んでいないのに救命行為を中止し、臓器摘出のための措置に切り替えるなんて許されない」というようなことは思わない。
また、「ドナーであるという理由で救命をおろそかにされるのでは……」を危惧する人もいるようだが、私はそんなことが起こりえるとは思っていない。
提供した後の体がどんな状態になるのかについては、多少気がかりではある。傷口を縫合してできるだけきれいな状態にして返還するとのことだが、痛々しい姿になることは間違いなく、家族に余計なつらさを味わわせてしまう可能性はある。
しかしその代わり、妻なり母なりの臓器がいまも誰かの中で生きているのだと思えることで、家族の悲しみが癒される部分は小さくないのではないだろうか。

こんなふうに考えていくと、「積極的に提供したいと思う理由はないけれど、かといって嫌だと思う理由もない」ことに気づくのである。


先日読んだ群ようこさんのエッセイに、お墓の話があった。
知り合いの男性が「景色のいい高台に墓を建てるのが夢だ」と言うのを、群さんともう一人の女性が「死んだら景色なんて見られないんだし、関係ないじゃない」「そうよ、死んだら何もわからないんだから、そういうのって無意味」と一笑に付した……という内容だ。
こういう人はとくに若い世代には多いのではないかと思う。
自分が死んだ後の話は私も友人とたまにすることがあるが、「お葬式はぱあっと派手にやってもらいたいわ」とか「立派な仏壇に祀られたいなあ」とか言う人にいまのところ出会ったことがない。

……で。
もしあなたが「死んだ後のことになんて興味ないよ」というタイプでありながら、「臓器提供はしたくないなあ」と思っているとするならば、矛盾しているような気がしないだろうか。
「死後の自分に執着がないのであれば、火葬される前にちょこっと手術室に寄り道をするくらいどうってことないんじゃないのか?怖いとか痛いとかもありえないわけだし。だってそれで確実に誰かを救うことができるのだよ?」
と。

とてももやもやした気分だったので、週末、ドナーカードをもらってきた。頭の中だけであれこれ考えるより、実際に手に取ってみたかった(これです)。
しかし、アンケートにはまだ回答できない。