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2005年10月31日(月) 子ども。(後編)〜生まない理由

※ 前編はこちら

スーパーで、電車の中で、道端で。小さな子どもを連れた女性を見て、「あ、ぴりぴりしてるな」と感じることはよくある。
彼女は何メートルか離れたところでしゃがみこんで泣いたり、駄々をこねたりしている子どもを「もううんざり!」と言いたげな顔で見つめている。あるいは、人目をはばからず叱りつけている。
そんな光景を目にするたび、「子育ては根気と忍耐、なんだなあ」と思う。

しかし、母親たちの“ぴりぴり”の成分は言うことをきかない子どもに対する苛立ちだけではないだろう。「子どもを連れていることで周囲に迷惑をかけてはいけない、邪魔だと思われたくない」というプレッシャーに因るものも大きいのではないか。
以前新聞で、少子社会をテーマに書いた三十代の主婦の文章を読んだ。その中にこんなくだりがあった。

子供を産んだら、世界が一変した。
いい意味ではない。悪い方に一変したのだ。行きたい所にも行けない不自由な毎日だ。
何も、コンサートに行きたいだの、旅行に行きたいだのと言っているのではない。日常の買い物すら困難な状況なのだ。ベビーカーで入れる店が少ない。エレベーターがなければ、上の階にも行けない。よしんば入れる店があったとしても、周りの視線の冷たい事といったらない。中には子供好きな方もいて、寛大な目で見てくれる時もあるが、大多数の人はベビーカーを邪魔そうな目で見る。子供の散歩と自分の気分転換を兼ねて買い物に出たのに、疲れきって帰ってくる。子供を作らない人が増えているという事実に心底納得できるのは、こんな時だ。


これを読んで思い出したのが、マンションの隣室に越してきた女性が挨拶に見えたときのこと。
お子さんは?と訊かれ、いないと答えると、うちには幼稚園前の男の子がひとりいる、できるだけおとなしくさせるが、もしうるさかったら遠慮なく言ってください、と彼女はすまなさそうに言った。
私は慌てて「そんな、そんな。子どもなんですから、のびのびさせてあげてください」と返したが、ドアを閉めてからしみじみ思った。世のお母さんには大なり小なり、こんなふうに肩身の狭い思いをしているところがあるんだろうなあ……と。
「お勤めはされてるんですか」と訊かれたのも得心がいく。そのときは唐突な質問だなと少し違和感を覚えたのだが、彼女はおそらく私が日中家にいるかいないかを知りたかったのだ。
子どもはいないと答えたとき残念そうだったのは、近所に年の近い子がいてほしかったという理由だけではないだろう。「子育て中の人やその事情をわかっている人は、子育て経験のない人よりも子どもや子ども連れに寛容」というのが彼女の中にあったからだと思う。

* * * * *

酒井順子さんは著書『少子』の中で、自身が子どもをほしいと思わない理由のひとつに「子どもを持つ女性を見てうらやましいと思えない」を挙げている。

先に子持ち国に移民した人達が、私達未婚国の住民に、「こちらには来ない方がいい!」とメッセージを送ってくるのです。彼女達はやつれ果てた顔で、
「子育てってマジで孤独だし、大変……。私、向いてない……。できちゃったからって安易に産むものじゃないわよ」
と、言ってくる。まるで入植に失敗し「こんなはずでは」と肩を落とす移民が、故郷の弟に「おまえはそちらに残って頑張れ」と手紙を書くかのように。


その、子育て中の女性のストレスというのは“滅私”状態に置かれていることの苦痛もさることながら、周囲への気遣いに疲弊して、というところからきているものも小さくなさそうだ。
先ほど紹介した文章を書いた女性は「子育てがしづらい世の中なのだ」に続け、少子化を食い止めるには……とこう書いている。

もう少し子供連れに対し、寛大になってくれるだけでも、随分と変わってくるのではないだろうか。少子化が進み、では数少ない赤ちゃんを大切にしてくれるかといえば、そんなことは決してない。ギャーギャー泣いてうるさい、もの珍しい生き物でも見るような目で見られる時がある。(中略)
子供連れも、子供を連れていない人もストレスを感じずに暮らせるような世の中にする事が、やがてたくさんの子供の笑顔があふれる未来へとつながって行くのではないだろうか。
少子化を考えるという事は、社会が大人として成熟する事を考える事なのだと思う。


子どもや子どもを連れた人に対し、冷たくはないけれど温かいとも言えないであろう私は頭を垂れた。
考えさせられるところの多いとてもいい文章なので、ぜひ全文を読んでいただきたい(こちら)。

……おっ。来週、養老孟司さんの「なぜ日本は『少子高齢化』したか」というテーマの講演を聴きに行くのだけれど、図らずもいい予習になったぞ。