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2005年09月30日(金) 書いてあることを、書いてある通りに。(前編)

村上春樹さんが映画について書いたエッセイ(『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』所収「二本立ての映画っていいですよね」 新潮文庫)に後日付記がついていた。
「僕は映画のクレジット・タイトルを最後まで見ないで、ぱっと席を立って出て来ちゃうと書いたら、それについていろいろと抗議の投書が来ました。そういう映画の見方はおかしいんじゃないかということで」
というわけで、村上さんはその付記の中で、「僕は見ないと言っているだけであって、みんなも見るなよと言っているわけではないので、どうかそんなに怒らないで」と書いていた。

「だってさ、撮影助監督助手が誰で、キャスティング・アドバイザー補佐が誰かなんて、悪いけど僕にはまったく興味がない。そんなもの眺めて時間を消耗したくない。これまでいろんな国の映画館でいろんな映画を見てきたけれど、エンド・クレジットをこんなに熱心に観客が見つめる国は日本くらいだ」
と書いてあるだけである。これのいったいどこにそこまで感情的になる余地があるのだろう……。

エッセイを読んでいると、こういう場面------読者の誤解を解くべく、作家が以前に書いた話を補足したり釈明したりする------にしばしば出くわす。
そのたび、私はできるかぎり心を無にして読み直す。が、「この書き方なら読者にそう受け取られても無理ないわなあ」と思うことは少なく、「どこをどう読んだらそんなふうに解釈できるんだ?」「そんなひねくれた読み方しなくても……」と首を傾げることがほとんどである。
少し前に読んだ林真理子さんの夫婦別姓についてのエッセイにも後日付記があったのだけれど、いくつか挙げられていた読者の反論の中には文章を正確に読んでいないという初歩的なミスを犯しているものがあった。

私は不思議でしかたがない。どうしてそこにある文章をそこにある通りに読まないのか。そうすれば腹の立つことなどひとつもないのに、書かれてあることを読み飛ばしたり、書かれてもいないことをあるものと思い込んだりするから、無用の不快感を味わわねばならなくなるのだ。 (つづく