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2005年09月26日(月) 出版社に行ってきた(前編)

五十代のサラリーマンが「定年退職したら、女房とのんびり温泉でも行くか」なんて考えるのと同じに、私には日記をやめたあとの楽しみがある。
それまでに書いたテキストを残らずプリントアウトして、“文集”を作ることだ。小学生のときにクラス全員の作文を集めて作った、ああいうの。

日記書きという趣味にはピアノの発表会やテニスの試合にあたるような、大きな達成感を味わえる場はない。その代わり、こつこつと積み上げてきたテキストの山があり、たまに振り返って「おおっ、いつのまにかこんなに高い山になっていたのか」とじいんとすることができる。
しかしながら、それはサイトを閉鎖した瞬間、跡形もなく消え去るかりそめの山。もうすぐ開設五周年になるうちの標高もかなりのものだが、私が「エンピツ」との契約をやめたら、文字通り一瞬で平地になるのである。
家が火事になったらアルバムだけは持って逃げたいと本気で思っているくらい、“記念”に執着が強い私のこと。日記書きに投じてきた空恐ろしくなるほどの時間を考えたら、潔くさくっと……なんてことができるわけがない。

それに十年後、二十年後に読み返し、「三十代の頃の私ってこんなに幼稚だったのか!」と赤くなったり青くなったりするのも楽しそうではないか。
その“引退後”の楽しみを増すために、今日もせっせと書いている。



そんな私が先日、電車の中でふと考えた。目の前にあった出版社の広告に「あなたの本を出版します」の文字。
「へええ、本かあ。“小学生の文集”が本の体裁になったら、そりゃあすてきだよなあ」

それにはいったいどのくらいのお金がかかるんだろう。個人が本を作るなんて、どのくらい現実味のある話なのかしらん。
……と思った私は、帰宅してその出版社に電話をかけてみた。すると、ちょうどこの三連休に大阪で出版相談会をするのでお越しになりませんか?とおっしゃる。
「あ、いやいや、費用とかほんとにそんなことが可能なのかとか、ちょっと訊きたいなと思っただけなので」

あわてて首を振ると、電話では答えようがないという返答。
というのは出版形態には二種類あって、「自主出版」は刷ったものを著者がすべて引き取るため、内容がよほど反社会的なものでないかぎり受け付けられるが、「共同出版」は著者と出版社が共同出資で制作し書店に並べるものなので、ある程度の商品力が求められる。そのどちらになるかによって話が違ってくるので原稿を見てみないとなんとも言えない、ということだった。
ふうん、と頷く私。
「気軽な気持ちでいらしてください。明日の十時からならご予約お取りできますよ」
「そうですか、じゃあ伺います」
そんなこんなで翌日、その出版社に赴いた。

* * * * *


受付の人に案内されたブースでかしこまっていると、四十なかばくらいの女性がやってきた。
「出版プロデューサーのタナカと申します。それではさっそく原稿を拝見できますか」

ここ一年くらいで書いたテキストの中から二十本選び、ワードで原稿用紙仕様にして出力したものを渡したところ、彼女がいきなり読みはじめたからぎょっ。
こういうのって、「ではちょっと失礼」なんて言って別室で読んでくれるんじゃないのー?モニターの向こうで読まれるのには慣れているけど、目の前でっていうのはさすがに照れくさいわ……。
としばらくもじもじしていたのだが、タナカさんがまるで私が透明人間であるかのようにひたすら無言で読んでいるので、私はだんだん退屈になってきた。
しかたがないので、周囲のブースに聞き耳を立てる。やはり出版相談に来ている人たちの、
「ストーリーはまだ考え中なんですけど、ペンネームはもう決めてあるんです」
「わしがこれまで山で撮ってきた写真は千やそこらじゃききまへんで」
といった声が聞こえてくる。かと思えば、「あのう、原稿持ってきたんですけど……」と受付に人が訪ねてくる。
そうそう、今日だって朝一番の時間帯しか空きがなかったから、私は休日にもかかわらず早起きしなくてはならなかったのだ。

私はかなり驚いていた。
「もしかして、世の中には自分の本を作ることに憧れてる人ってけっこう多いの……?あ、そういえばうちの伯父さんも何年か前に『わが○○』って郷土史を出してたっけ」

心の中でひとりごちていたら、タナカさんが原稿を机に置いた。 (つづく