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2005年08月31日(水) 湯けむり劇場

ドイツの土産を渡そうと友人に会ったら、彼女もお盆に旅行に行っていたという。
付き合いはじめて半年になる彼と箱根に二泊してきたらしい。ふだん忙しくしているふたりなので外出は近くの土産物屋をひやかすくらいにして、部屋でのんびり過ごしたのだそう。

それを聞いて、羨ましさで身悶えした私。なにを隠そう、私は過去に恋人と温泉に行ったことがないのだ。
長いこと、温泉は女同士で行くものだと思っていた。温泉旅行の醍醐味はなんといってもお湯に浸かりながらのおしゃべりだ。たいていの旅館には風呂がいくつもあるから、宿に着いたらまずひと浴び、食事の前にも寝る前にも入り、早起きして朝日を見ながらまた入る……という具合に、髪が乾く間がないくらいせっせとお湯をはしごする。これが楽しいのだ。
しかしながら、私には混浴の露天風呂に入る勇気はない。彼と出かけてもばらばらに入るしかないのである。それでは一緒に過ごす時間が少なくなってもったいない。
というわけで、恋人と行く旅行先にわざわざ温泉地を選ぶことはなかった。

そんな私が宗旨変えしたのはここ数年のこと。
混浴には相変わらず入れないが、時間制で貸し切りにできる“家族風呂”のある旅館が増えてきたし、二十代も後半になると自由になるお金もちょっぴり増える。露天風呂付きの部屋を視界に入れられるようになったからだ。
実は湯布院に、以前から「ぜひ一度行ってみたい」と憧れている旅館があるのだ。全室離れで、露天風呂付きという造り。
そう、いつでも好きなときにお湯に浸かれるのである、彼と一緒に。

* * * * *

「足元、お気をつけくださいね」
チェックインを済ませた私たちを仲居さんが案内してくれる。フロントのある本館から離れの部屋へは吊り橋を渡って行くのだ。わー、なんだかお忍びの宿って感じ。
念願叶って、彼と初めての温泉。この二日間は観光になんか出かけないで、ふたりでのんびり過ごすつもり。どうかすてきな部屋でありますように。

こちらでございます、と仲居さんが立ち止まったのは「美月」と札のかかった部屋……というより一軒の日本家屋の前。私たちは顔を見合わせ、感嘆の声をあげる。
「すごいね、完全にプライベートな空間だね!」
中に入ると、い草の香りのする純日本風の部屋。居間と寝室が別になっていて、とても広い。あ、掘りごたつもある!ここなら日常の喧騒を忘れて、うんとくつろげそうだ。

そのとき、「おいで、こっちにお風呂があるよ」と彼の弾んだ声。
部屋の一番奥、坪庭に縁側状にはり出した板の間に小ぶりの檜風呂を発見。ふたりで入るのにちょうどいい大きさだ。
「キャー!すてきすてき!」
明るいうちに由布岳を眺めながらもいいけれど、日が落ちてから飴色の灯りに包まれて虫の音を聞きながらっていうのもムーディーだろうなあ。のぼせても寝椅子があるから大丈夫……。
なんてことを仲居さんがいれてくれたお茶を飲みながら考える。ああ、どうしよう、期待で胸がパンクしそうよ。

夕食はもちろん部屋食だ。海の幸山の幸がテーブルに載りきらないほど並ぶ。その中には私たちが食べたことのない料理も。
「これ、なんのお刺身ですか?酢味噌で食べるってめずらしいですね」
「それは鯉のあらいでございます」
「へえ、これが……。じゃあこっちのたたきみたいなのは?」
「馬刺しでございます」
生の獣肉は食べたことがない。焼肉屋でも生レバーはいつもパスだもの。恐る恐る口に入れると……うん、柔らかくておいしいっ。
自家製の果実酒もございますよ、と仲居さん。へえ、おいしそう。お酒はあんまり飲めないけど、ちょっとだけいただこうかな?
「うん、酔っちゃってもいいよ。今日はどこにも帰らなくていいんだから」
ううっ、幸せ……。

食事の後、渓流のほとりを散歩して戻ってきたら、手前の十畳の和室に布団が敷かれていた。二組の布団がぴったりくっついているのに気づいたけれど、照れ屋の私はなんでもないふり。テーブルの上に見つけたおにぎりに話を持って行く。
「お夜食にどうぞ、だって」
「あは、だけどもうおなかいっぱいだよね」
「うん。……あれ?」

ふと見ると、浴衣があらたに二枚増えている。ふたりなのにどうして四枚もあるんだろう?
「それは寝巻き用だよ。こういうとこ来ると、日の高いうちからお風呂入って浴衣着るでしょ。で、散歩行ったりごはん食べたり。だから寝るときに着る分を別に用意してくれるんだよ」
「なるほどー」
男の人なのによく知ってるなあと感心したあと、ちらっと頭をよぎる。
「もしかして、昔誰かに教えてもらったのかな……」
首を振ってあわててかき消す。バカね、過去にやきもち焼いてどうするの。

部屋の奥から私を呼ぶ声がする。行ってみると、彼がお湯の温度をみているところだった。
その後ろ姿がなんだかとても愛しくて……。きゅっと抱きついたら彼は驚いたように振り返り、そしてちょっぴり照れくさそうに言った。
「いい湯加減だよ。入ろうか」
「うん」

湯けむりに包まれて、ふたりの夜は更けていったのでありました。


恋人と温泉に行ったことがあるという方、だいたいこんなところではなかったでしょうか。けっこういい線いっているのではないかと……えっ、ぜんぜん違う!?もっとアダルトバージョンだって?
そ、そうですか、それはどうも失礼しました(上に書いたのは、かつて私が見た夢です)。