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2004年11月17日(水) 批評する側に求められるもの(後編)

「店舗を増やす前と後、一度ずつしか行っていないが、変わってしまった印象を受けた。初回のほうがおいしかった」
こういうコメントを読むと、少しばかり店が気の毒になる。たった一度や二度食べただけで何がわかる、と言いたいのではない。同じ店に通いつめるなんて不可能なのだから、「自分が訪れたそのとき、どうだったか」でよい。しかし、私たちは自分がそれほど高性能な舌を持っているわけではないということを頭に置いておくべきではないだろうか。
人の味覚というのはきわめてあやふやなものである。その日の体調や空腹の度合い、心のコンディション、テーブルを共にする相手、メートルの応対の良し悪しにまで影響されてしまう。
同じものを食べても、再訪時の感激は初回時のそれには及ばない。見晴らしのよい窓際の席と出入り口に近いざわついた席とでは気分はずいぶん違うはずだ。勘定が自腹か他腹かということも採点に何らかの関わりを持つだろう。
そしてもうひとつ、私たちの舌に働きかけをするものがある。私はこれがもっとも厄介なのではないかと思っているのだが、それは“先入観”というやつだ。
フード業界の会社で企画開発の仕事をしていたとき、こんなことがあった。次季の新商品にどうかとあるメニューを営業部に提案したところ、「悪くないけど、一口めのインパクトが足りない。もう少し辛味がほしい」という答えが返ってきた。
パンチをきかせることはいくらでもできるが、そうすると味のバランスが崩れてしまう。そのことはうんざりするほど繰り返した試作の過程で明らかになっていた。しかし、一皿食べたときにどうかを考えたらいまがベストなんだと説明しても、相手は頑として譲らない。味の決定権はこちらにあるとはいうものの、営業をその気にさせられなければ売上は期待できない。やむなく、提案し直しますと言って引き下がった。
三日後の再プレゼンの席で、十数人いた男性は口々に言った。
「うん、やっぱりこのくらいでないと」
「これなら売れるよ」
その場で商品化が決まったが、私はホッとするやらがっかりするやら。なぜなら、そのときみなに食べさせたのは前回とまったく同じレシピで作った、まったく同じものだったから。彼らは辛味が調節されたものが出てきたと信じて疑わなかった。
味覚というのは、このくらい精神的なものなのだ。

シェフがマスコミに取り上げられて有名になったり、店が増えたりすると、「態度が大きくなった」「儲けに走っている」と思いたがる人は少なくない。
「この店を話題にすること自体、経営者の思うツボという感じなのであえて採点していなかったが、一応私見を述べておくと……」
なんて前置きしているコメントを読んで苦笑する。この人は何をもってそれが“思うツボ”だと思ったのだろう?
こういう感情が舌に与える影響はおそらく小さくない。そして、私たちがおいしさというものを数値化できない理由がここにある。舌の未熟さだけではない。味を評価するにあたって、自分を“精神的にニュートラルな状態”にすることができないからだ。
料理評論家の山本益博さんの、こんなエピソードが印象に残っている。天才シェフがいると聞いて、スペインに飛んだ。相手は自信作を用意して待っているという。が、その機内で山本さんは不安だった。
「出された料理がわからなかったらどうしよう」
結果はどうだったか。
「これまでの自分の経験を総動員しなきゃ負けちゃうって思いながら食べた。でもね、ぜんぜんわからなかった。いや、味はわかりますよ。だけど、その仕事がまったく見えてこない。四十歳という若さのシェフが投げた三十三球(皿)、全部見逃し。僕はバットを振ってもいない。まいった。素直に降参して帰ってきたわけですけど、悔しくってねえ」
フランス料理を四千回食べてきた山本さんが「まいった」である。私はその潔さに好感を持った。その後もスペイン通いを続け、最近になってその三十三皿が少しずつわかるようになってきたのだそうだ。
中には名声を得たことで味が落ちた店もあるかもしれない。しかし、「たいしたことない」のはこちらの舌である可能性だっておおいにある。
私たちはグルメ雑誌のフードライターではないから評価の正しさにこだわる必要はないけれど、シェフの腕に疑問を持つ前に一瞬、自分の舌を疑ってみるくらいの謙虚さは持っていてもよいのではないだろうか。相手は間違いなく自分より知識も経験も豊富な“プロ”なのだから。
「まずい!」と断ずるのはそれからでも遅くはない。

【あとがき】
前編に書いた『オテル・ドゥ・ミクニ』の三國清三シェフによると、「味覚の成長は十歳くらいで止まる。それまでに塩味、甘味、酸味、苦味の四味を覚えさせないと味に興味を示さない子どもに育ってしまう」のだそうです。だから、その時期に自然(本物)の味に触れず、化学調味料山盛りのコンビニの弁当とかインスタント食品ばかり食べていたら……あとは推して知るべし。
たしかに有名なシェフの生い立ちを読んでいると、「貧しい家に生まれたけど、海のそばだったから魚だけは新鮮なものを食べられた」とか「裏の畑で取れた野菜を食べて育った」とかいう人がすごく多いのです。