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2004年10月27日(水) 「ドラマティック」とは無縁だけれど

讀賣新聞の朝刊に、著名な人たちの半生を紹介する「時代の証言者」という欄がある。日本経済新聞の「私の履歴書」をイメージしてくださればよい。
いま連載中なのは帝国ホテルの第十一代総料理長で、現在は料理顧問を務める村上信夫さんである。
有名な方なので、そちら方面に疎い男性でもこの名を聞いて、見るからに人のよさそうなオヤジさんを思い浮かべる人は少なくないだろう。
尋常小学校五年のときに結核で両親をなくし、孤児になった。卒業を待たずに働きはじめることになり、大工修行や洋服の仕立て屋見習の話が持ち込まれたが、「家は建てたら二十年、洋服も一度あつらえたら五年は持つ」と考え、断った。よし、それなら食べ物商売にしようと決め、洋食の店に住み込みの小僧として入れてもらったのが昭和八年------というところからはじまった連載が本当に楽しみで、このところ私は新聞が届くと真っ先にこの面を開く。その中にはぐっとくるエピソードがいくつも出てくる。
当時は「料理の味は盗むもの」という時代。帝国ホテルの厨房で下働きをしながら、鍋を洗う前にすばやく鍋底にこびりついたソースを舐めて先輩の味を覚えたとか、太平洋戦争に出征することになった二十一歳のとき、親方に呼ばれ、「戦争に行ったらどうせ死んじまうんだから、お前には教えてやろう」とホテルの名物料理「シャリアピン・ステーキ」の門外不出のレシピを伝授されたとか……。もちろん親方は「生きて帰って、この味を伝えてくれよ!」と言いたかったのだ。
そして、私がもっとも気に入っているのはこの話。
中国の山中で敵を包囲し、明朝攻撃を仕掛けるという夜、部隊長から「明日は我々の部隊にも相当戦死者が出るだろう。今日はうまいものを食わせてくれ」と言われた。みなに希望を訊くと、「ライスカレー」という答え。そこで鶏をつぶし、はりきってチキンカレーを作ったところ。

気づいた時には、もう遅かった。一面にカレーのにおいが漂っちゃってね。部隊長が馬に乗ってすっ飛んできた。「この先に敵がいるのに、カレーなんか作ったヤツは死刑だ」とどなられ、私は覚悟して目をつぶりました。そうしたらそばに来て、「後で食わせろ」と言って行ってしまった。
あくる朝、包囲したはずの敵の陣地は、予想した通り、もぬけの殻でした。

名を成した人たちの回想録を読むと、「なんてドラマティックな人生なんだ」と圧倒されることがしばしばある。
彼らは多くの苦難を乗り越えてきたから、ひとかどの人物になったのであろうか。それとも大成する資質を持った人だったから、つぶれることなくここまでこられたのか。
村上さんでいえば、両親を相次いで結核でなくすとか厨房や戦地で毎日のように上の人に殴られるといった、時代に否応なしに与えられた試練も少なくなかったが、「自ら買った苦労」もたくさんあったことがよくわかる。そして、その経験を残さず血肉にしてきたことも。
私はなんと不自由のないぬくぬくとした環境で生きてきたことだろう。いや、これからだって時代に苦労させられたくはない。けれど、生きるためにがむしゃらになったことがある人とない人とでは「骨」がまるでちがうということは疑いようがない。
本当に平凡な人生を送ってきたのだなあ、とつくづく思う。人に話すほどの経験なんてまるでないもの。
しかしそれを思うと、派手なことはなにひとつ書かれていない見ず知らずの人間の日記を読みに来てくれる人がいるというのはなんてありがたく、またすごいことなんだろう。
小説家や脚本家、漫画家といった、それが本業でない人たちのエッセイを読んでいると、「エッセイを書くようになってから、日々の出来事に敏感になった」という意味の文章に出会うことがある。林真理子さんも講演会で、
「エッセイのネタ拾いには苦労している。アンテナを立てて生活し、キャッチしたものは『これは今月の連載で使おう』とか『あれはもうちょっと寝かせておこう』というふうに小分けして頭の中にストックする。人との会話も正確に記憶しておく癖がついている」
と話していた。
ときには芸能人に会ったりパーティーに出たり賞をもらったりするような、私の目にはイベントに満ちた生活を送っているように映る人たちでも、そうした心がけをしているのだ。たかが日記、されど日記。私なら足元の石ころにも気づくくらいの感度がなければ、明日のネタに困るのも当然か。
なにかにはっとすること、思いを馳せること、立ち止まって考えること。どんなに忙しくても私の中からそれらを排除しないよう、せいぜいていねいに暮らしていこう。

【あとがき】
「死ぬ前にパイナップルの缶詰が食べたい」という重病の仲間のために、戦地でリンゴを輪切りにして芯をくり抜き、まわりをぎざぎざに切って砂糖で煮たものを作って食べさせたら、彼は翌年元気になって病院から戻った。「パイナップルがおいしくて、死ぬものかとがんばった」と言うのを聞いて、コックをやっていてよかったとしみじみ思ったのだそうです。コック帽がよく似合う太っちょのオジ(イ)サンさんといった風貌には、村上さんの人柄がにじみ出ています。