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2004年08月25日(水) その人のハンカチ

掛け持ちしているふたつめの職場に二週間ぶりに出社したら、仲良しの同僚が私の顔を見るなり飛んできて言った。
「ちょっと聞いた?また禁止事項が増えた話!」
その会社にはかなり細かい就業規則がある。業務をするフロアにはボールペン以外のものは持ち込めないとかトイレに行くにも名札が必要といったことは、個人情報を扱う業種である以上セキュリティの関係でやむを得ないことであるが、顧客データの持ち出し防止云々とは関係のない部分においてもかなりシビアだ。
席での飲食は厳禁のため、マグカップを机に置くことも土産の菓子を配ることもできない。私語が注意されるくらいだから、ネットサーフィンや私的なメール書きなどとんでもない。ノースリーブやサンダル、ブーツ、ネイルアートもだめ。「常識に委ねる」ではなく、許されないこととして明文化されていることがとにかくたくさんある、緊張感漂う職場なのだ。
そして彼女が言うには、先日あらたな禁止事項が言い渡されたという。「業務中に足を組んではいけない」というものだ。横柄でだらしなく見える姿勢であり、それは顧客と電話で話しているときの声にも表れかねない、というのがその理由である。
「あの部長、ちょっと自分が足短くて組めないからってさ」
同僚が口々に文句を言う。彼女たちにとってそれはすでに癖になっているから、組まずにいようとすると気が散ってしかたがないらしい。まあ、そうだろうな。私だって、もし「頬づえ禁止令」が出されたらものすごく困る。
ところで、私がふだんから足を組まないのは見た目によろしくないと思っているからだ。性別によってしてはいけない事柄というのはないとは思うが、男には似合わない姿、女では絵にならないポーズというのは存在するのではないか。女性の足組みは、私にとってそれにあたる。タバコを吸っている姿ほどではないにしろ「ちょっとなあ」と思わせるものがあるので、私はしない。
というように、他人には「妙なとこかっこつけて、くだらない」と馬鹿にされるであろうこの種のこだわりを、私はいくつか持っている。
それはたとえば、「どんなに寒くても“ババシャツ”は着ない」といったようなことなのだが、最近そのうちのひとつを反故にした。
生まれてこのかた、私はハンドタオルなるものを使ったことがなかった。タオル地のそれは子どもっぽいというか色気がないというかで、「やっぱりハンカチでしょ」と思っていたからであるが、友人からかわいいものをもらったのをきっかけに愛用するようになったのだ。すぐにぐっしょり濡れてしまうこともなければ、アイロンをかける面倒もない。なんて便利なんだろう!といまさらながら気づいたわけだ。
それでもあいかわらずハンカチも一枚、バッグに忍ばせている。それはブラシや化粧ポーチを携帯していること以上に、その人の「女性」の部分を感じさせるものである気がするからだ。レストランで膝の上に広げるのはやはりハンカチにしたい。
友人と食事をしていたら、隣りのテーブルの女性が運ばれてきた料理の置き場所をつくろうとしてグラスを倒した。慌てるあまり、自分のほうに押し寄せてくる水を見つめるだけの彼女に、向かいに座っていた男性がすかさずハンカチを出した。
「まあ、素敵……」
私は心の中でつぶやいた。これを読んでくださっている男性の中に、スーツのポケットにハンカチが入っているという人はどのくらいいるのだろう。
どこの公衆トイレにもエアータオルやペーパータオルが備えつけられているから、なくても不便はないかもしれないけれど、こういうシチュエーションで紙ナプキンではなくハンカチをさっと渡せる男性には色気を感じる。
三十数年の人生の中で、私のためにハンカチを差し出してくれた男性は、ひとり。
その人が頬にあててくれたハンカチにはきちんとアイロンがかかっていた。それは二度とは会えぬことを私に教え、私の胸は決定的に張り裂けたのだった。

【あとがき】
ハンカチやハンドタオルがなくても困ることはあまりない。公衆トイレには必ずといっていいほどエアータオルかペーパータオルがついているから、一度もバッグから取り出さなかったなって日もあるくらいだし。それでも、たまに忘れるとなんとなく落ち着きません。