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2004年02月25日(水) 愛に報いる方法

いま読んでいる渡辺淳一さんのエッセイの中に、「おじさんの見る夢」というタイトルの文章がある。
「マディソン郡の橋」を読んで書いたものだ。十年ほど前にベストセラーになったアメリカの小説であるが、映画化されたのでそちらでご存知の方も多いだろう。
舞台はアイオワ州マディソン郡の片田舎。農場主の妻として平凡に暮らすフランチェスカ(映画で演じるのはメリル・ストリープ)の前に、屋根つき橋の写真を撮り歩いているというカメラマンの男が現れる。彼の名はロバート(クリント・イーストウッド)。彼女はローズマン橋まで道案内をするが、自由で都会的な雰囲気を持つその男に夫にはない魅力を感じ、たちまち恋に落ちる。夫とふたりの子どもは遠出をして家を留守にしていた。家族が帰ってくるまでの四日間、ふたりは互いが互いにとってなくてはならぬ存在であることを確かめ合う。
最後の夜、ロバートは「一緒に行こう。ふたりで新しい世界をはじめよう」と言い、荷物までまとめたフランチェスカだったが、迷いに迷った末、「やはり家族を捨てることはできない」と踏みとどまる。
十数年後、ロバートは彼女に告げた「これは生涯にたったひとつの確かな愛だ」の言葉通り、独身のまま死ぬ。フランチェスカもまた、短いが激しい恋を胸に抱いて死んでいく。
渡辺さんは読みはじめてまもなく、「この作者は男だな」とピンときたという。なぜなら、女性主人公のキャラクターやストーリー展開が男の発想、男の感覚から生まれたものであると思われたからだ。

こういう場合、現実の女性なら、ほとんど夫を捨てて家を出るだろう。これほど好きな男をムザムザ逃して、あまり好きでもない夫と、いままでどおりの退屈な田舎暮らしを続けるとは思えない。


男は優柔不断だから、好きな女性に「奥さんを捨てて家を出てきて」と言われても踏ん切りがつかず、結局残ることになる。そして勇気のない自分を責めながら、恋の思い出を引きずって生涯を終える。しかし、女性はすべてを捨てて開き直る強さを持っている。フランチェスカのようにこれほど強く誘われながら踏みとどまることも、実を結ばなかった恋をいつまでも思いつづけていることもない----というわけだ。
渡辺さんといえば言わずと知れた、大人の恋愛小説の大家である。しかしながら、私はまったく逆の考えだ。私はフランチェスカがロバートについて行かなかったところにこそ、リアリティを感じている。
彼女は「夫を裏切り、子どもを捨てて出て行くことはできない」と涙を流し、目の前の男をあきらめる。それは家族に対する責任、自分が選択した人生に対する責任を果たすためであるが、それだけではない。
彼女にはわかっていたのだ、すべてを捨て去ることができるほど自分はもう若くないということを。この新しい愛に走っても本当の幸せは得られないであろうということを。そして、どんな愛も永遠にはつづかないのだということを。
まったく別の生き方をしてきたふたりがずっと一緒に生きていくことができるとは、彼女には思えなかった。もしかしたら、「こんなに愛し合うことができたのは四日間という期限付きだったからなのかもしれない」とさえ思いはじめていたかもしれない。
人はときに、その悟りにも似た悲しい予感を組み伏すことができない。たとえどんなに激しい恋の真っ只中にあろうと。

どしゃ降りの雨のラストシーン。町に買い物に出たフランチェスカと夫の乗る車の前に、信号待ちをするロバートの車。信号はやがて青に。しかし、前の車は動かない。ロバートの最後の誘いだ。
早く行け!とクラクションを鳴らす、なにも知らない夫。前車のバックミラーには彼女が贈ったネックレスが掛けられ、揺れている。ドアのノブに手をかけるフランチェスカ。
しかし、最後の最後に彼女は自分の心に強力なブレーキをかけた。この農場用ピックアップトラックに残ること、すなわち「この町で農夫の妻として退屈に生きること」を彼女は最終的に選ぶのだ。
左のウィンカーを出し、ゆっくりと動き出す前車。そのライトの点滅はすべてを悟ったロバートのフランチェスカへのエール、彼女の選択を祝福する気持ちだ。そして、ロバートは町を去る。
「男はロマンチストで、女は現実的」とよく言われる。実際に男と女のあいだにそのような傾向があるのかどうか、私にはわからない。しかし、この物語の中ではそう描かれている。
「現実的」とは、最後まで手離してはならないものがなんであるかをいかなるときにも見誤らない聡明さ、喪失の恐怖と闘う勇気を持っているということだ。ロバートはフランチェスカの高次の決断に降参したのである。
もちろん、世の中には「ロバートな女性」も「フランチェスカな男性」もいることだろう。しかしそれでも私は、この状況で男の車に飛び込むことができる女性はとても少ないのではと思うのだ。

ところで、この物語には私が非常に残念に思っている部分がある。
フランチェスカは死後、その四日間の恋を息子たちに手紙で告白する。そして、遺体を火葬にし、その灰をロバートとの思い出の場所であるローズマン橋から撒いてほしい、と息子たちに遺言するのだ。
「私の一生は家族のために捧げました。だから死んだあとは、私は彼のものです」
私はここがどうしても腑に落ちない。あの場面で思いとどまることのできる賢さ、強さを持つ女性がはたしてこんな真似をするだろうか。
彼女のふたりの子どもはそれぞれパートナーとのあいだに問題を抱えており、母の秘密を知ることは結果的には彼らが家族との関係を見つめ直すきっかけになった。しかし、フランチェスカがそれを明かしたのはその効果を期待してのことではなく、あくまで「死後の自分はロバートに捧げたい」という願いからである。
あの「運命の四日間」をどうして永遠にふたりだけのものにしておかなかったのか。理解に苦しむと同時に、私はそれをとても悔しく思う。
いい話だったなあと思えるかどうかは私の場合、物語の結末でほとんど決まる。もしローズがジャックへの愛だけに生き、独身を貫いていたら、『タイタニック』は薄っぺらい愛の美談に終わってしまっていたはずだ。
愛に報いるとはどういうことか。彼女があのあとも恋をし、子どもを生み、ジャックとの約束を胸にたくましく生き抜いたからこそ、私は見るたび涙を流す。そして、女はこうでなくてはとつぶやくのだ。
「彼のことは今まで誰にも話さなかったの。主人にもね。女って海のように秘密を秘めてるの」
短い、短い時間だった。けれど、一生燦然と輝きつづける宝石のような記憶。
私なら生涯誰にも話さない。この胸に秘めたまま、墓まで持って行く。

【あとがき】
ロバートが死に、遺言で遺品がフランチェスカのもとへ送られてくる。その中に一冊の写真集が入っていた。タイトルは「永遠の四日間」、扉には「生涯にたった一人のFに捧ぐ」。ロバートのポートレイトの首にはフランチェスカが贈ったネックレスがかけられていたのでありました。私はこの映画を何度か見ましたが、見るたびに感想が違っています。言えるのは、これは十代、二十代のための映画ではないということです。