過去ログ一覧前回次回


2004年02月04日(水) 夫婦の寿命(後編)

妻は夫が家を不在にしている時間が長いことに不満を持つのではない。
単身赴任中の夫に「あなたは子どもの相手をしてくれないし、お風呂にも入れてくれない。それでも父親なの」とは言わないように、不可抗力な事情でそういった生活を強いられている場合は、寂しさを感じることはあっても夫を責める気持ちにはならないだろう。
夫への愛情や信頼が失われるのは、妻の目に彼が夫、父親たる時間を持つ余裕がある(ように見える)のにそうであろうとしないときや、好んで仕事に忙殺されているように映るときだ。夫不在の毎日の中で妻のよすがとなるのは、夫が自分たちとの時間を持ちたいと思ってくれていると感じられることなのである。
「俺は給料の運び屋じゃない」は男のセリフだと思われているが、「あなたは給料の運び屋じゃないのよ!」と叫びたいのは妻だって同じなのだ。
「何十年も家族の召し使いをやってきて、いまようやく、ひとりになりたい、自分のために時間を使いたいと望むようになって、いったいなにが悪いの」
「別れないでほしい?そりゃあそうでしょう。便利な女がいなくなると困るものね」
晶子にこう言わせるのは、母親の役割をこなし、家の中をうまく回していればさえそれでいいと思われていることに対する屈辱と無念の思いだ。
「自分の存在価値は家族のために尽くすことだけなのか」と思ったとき、妻はその生き方に見切りをつける。その瞬間から彼女の胸の中で子どもの成人、あるいは就職、結婚をリミットとした「夫婦の終末時計」の針が午前零時に向かって動き出すのである。

熟年離婚を切り出すのは妻であることが圧倒的に多く、たいていの夫はそれを青天の霹靂だと思うのだそうだ。
そういえば、「五十代前半の団塊の世代の男女を対象に老後の生活に関するアンケートを行ったところ、男性の四十七パーセントが『夫婦で一緒にいるのは楽しい』と答えたのに対し、女性は三十パーセントだった」という記事を新聞で読んだことがある。調査を実施した長寿社会研究所は「この意識のギャップは定年後の夫婦生活に混乱をもたらす要因になる」と指摘していた。
定年後は妻とふたりでと願う夫と、とうの昔に夫を当てにしなくなった妻。一番下まできてからボタンの掛け違いに気づいても、もう遅い。
厚生労働省の人口動態調査によると、離婚件数に占める熟年離婚の割合は七五年は五・七パーセントだったのが、九八年には三倍(一六・九パーセント)にはねあがっている。平均寿命が延びたことで、子どもを成人させてからの時間が二十年、三十年残されるようになった。この先は自分のための人生を生きたいと願い、ではどうすればよいかを考えるようになったことが熟年夫婦のあり方を変えているのだろう。
終身雇用が当たり前だった時代がすでに過去となったように、二十年後にはこれから結婚しようというカップルの辞書から「添い遂げる」という言葉が姿を消しているかもしれない。

ところで、実は私は少し期待していたのだ。あのドラマを見て、「夫の言い分」を書いた男性の日記がひとつくらいあるんじゃないか、と。
一緒に見ていた夫は二時間のあいだに「すごく嫌な奥さんだなあ」「そんなこといったって仕事は大変なんだよ」を何度口にしただろう。そして、その傍らで「こういう家庭ってすっごく多いと思う」「そりゃあ虚しいよなあ」とつぶやく私。ふたりの感想はどこまでいっても交差することがなかった。
家庭と仕事、その両方を持つ男性があれを見てどう感じたか、なにを考えたかに非常に興味があったのだが、リンク集にそれらしき更新報告コメントを見つけることができなかったのは残念だった。

私には新聞や雑誌で目を引いた記事を切り抜いて取っておく習慣があるのだが、そのスクラップブックの中にとりわけ大事にしているページがある。
貼り付けられているのは、六十九歳の男性が書いた投書。一年以上前に朝刊に掲載されていたもので、これまでに何度読み返したかしれない。
書き手の妻にも人知れず胸に抱えるものがあったのだろう。が、読むたび私はこの「夫」に心打たれ、慰められ、励まされる。よかったら、こちら

【あとがき】
で、『それからの日々』は結局どうなったのかって?ふたりは離婚したのかって?前編のはじめにも書いたけど、このドラマは「家族再生」をテーマにした物語である……といえばわかるかな?とてもよかったです。機会があればビデオを借りてみてください。