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2003年04月18日(金) きちんと書きたい

讀賣新聞の夕刊に「新日本語の現場」という連載がある。日本語のあり方について考えるコラムなのだが、とくに若い世代の国語力の低下や活字離れの実態について取りあげており、毎日興味深く読んでいる。
昨日はこんな話が載っていた。
文部科学省メディア教育開発センターが全国31の大学・短大に通う学生6700人を対象にどれぐらい言葉を知っているかのテストを行ったところ、私立大生の7%、短大生の18%が中学生レベルだったという。
たとえば「『憂える』の意味は?」の問いに、彼らの7割がまったく逆の意味である「喜ぶ」を選んだ。また、理性を失って感情をむきだしにするさまであり、いい意味では使われない「感情的」という言葉を、「心優しい」「思いやりや愛情がある」のように理解している学生も少なくないという。
しかしながら、正直言ってそれほどの驚きはない。敬語を使えない若者はめずらしくないし、パソコンの普及で字は汚い、漢字は書けない、筆順もめちゃくちゃ。彼らの語彙の貧しさ、理解力のお粗末さを聞いても、さもありなんといった感じだ。
私はいま、クレジットカード会社でテレコミュニケーターをしている。毎日二百件近くの顧客に電話を架けるのだが、中にはあまりに言葉を知らない人がいて唖然とすることがある。
たとえばカードを解約したいという申し出があると、私たちはこう説明する。
「では返信用封筒を送りますので、お手元のカードにハサミを入れてご返送ください」
すると、たまにこんな返事が返ってくるのだ。
「えっ、ハサミを入れて送る……んですか?」
「はい、そうです」
「それってどんなハサミでもいいんでしょうか……」
うそみたいな話だが、本当だ。
「○○様はご在宅でしょうか」
「当社の電話番号を申し上げますので、控えていただけますか」
この「ご在宅」や「控える」さえ通じないときがあり、この人の辞書は薄っぺらいんだろうなあと想像してしまうことは少なくない。

「辞書」といえば、私が日記を書くときの必須アイテムのひとつである。
私はたいていの事柄において大雑把な人間だが、「書く」についてだけは癇性なところがある。こういうテキストでは言葉をきちんと使いたいという気持ちが強く、固有名詞の間違いや省略、誤字脱字が許せない。また、文章が豊かになるような気がして慣用句や比喩を好んで使うため、広辞苑なしでは心もとないのだ。
以前、こんな失敗をしたことがある。ある日記書きさんについて「ファンだと名乗り出たりせず、静かに応援していきたい」という意味のことを書くときに、「草葉の陰から見守っていく」と表現したところ、「それじゃあ小町さんが幽霊になっちゃいますよ!」とメールが届いた。
あわてて調べると、草葉の陰とは墓の下のことだとあるではないか。「柱の陰から」と同じつもりだったので、私は赤面した。
以来、曖昧なことは必ず調べる。一話あたり五回は辞書を引いているのではないだろうか。
そうだ。いい機会だから、この話もしておくか。さきほど「書くことにおいては神経質なところがある」と言ったが、未完成の文章を人に読まれるのを異常に恥ずかしく感じるというのもそのひとつ。更新してからも文章にバンバン手を入れるのはそのためだ。
と言ったら、「じゃあもっと完成度を高めてからアップしたら」とつっこまれてしまいそうだが、これでも一晩寝かせている。それでも、翌朝更新後しばらくは読み返すたびに何箇所、日によっては何十箇所も気に入らないところを見つけてしまうのだから、不可抗力だと言っても許されるのではないだろうか。
そんなわけで、私はちまちまと修正を繰り返しながらいつも、はてなアンテナを利用してここを見に来てくれている人たちに心の中で詫びていたのだ。あれはたった一文字修正しただけでまるで更新されたかのようにリストの最上部に移動してしまうものだから。
うちは毎日更新ではないし、あっても一日一回。まぎらわしくてごめんなさいね。

<追伸> 読み手のみなさまへ。
果物の缶詰は出来たてよりも、缶に詰められてから一年ぐらい経ったもののほうが味がしみて美味しいといいますが、私のテキストも更新後半日から一日経過したあたりが読み頃となります(あ、開き直った)。


【あとがき】
息を「飲む」か「呑む」か。「飲むわ食うわ」か「飲むは食うは」か。確信がなければとにかく辞書を引きます。インターネットで裏取りもしょっちゅう。遅筆の上にこういう作業があるから、日記を書くのに時間がかかるんですよね。凝り過ぎですね。お金はかからないけど、これだけエネルギーを消耗する趣味はなかなかないんじゃないかしら。
こういうことを書いた日記に誤字脱字があったらめちゃくちゃかっこ悪いね。もう一回チェックしとこ。