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2002年05月16日(木) ある日の新聞投稿に思う

毎朝、新聞の読者投稿欄を楽しみにしている。朝刊は真っ先にそこから読む。
たくさんの応募作の中から選ばれただけあって、「中身がなくて読んで損した」なんてことはまずないし、日々書き手が変わるので飽きることもない。これほど幅広い年代、立場、境遇の人の経験や考えに触れられるというのはweb日記にはない魅力である。
さて、今日は先日読んだある投稿について。
「土曜日運動会で切り捨てられた」というなんだかものものしいタイトルのそれは、小学生の子どもを持つ三十代の女性が書いた文章だ。
「うちは共働きで休みは日曜日だけ。なのに今年の運動会は土曜日と決まってしまった。こういう行事は多くの人が休める日曜日にするものではないのか」
という内容であった。
「私たちは学校から切り捨てられてしまったのか」には、そこまで被害者意識を持つ必要はないでしょうと思ったが、たしかに土曜日より日曜日のほうが都合がつきやすいという親は多いかもしれない。「学校側の配慮が足りない」という言い分には理解できる部分も多少ある。
しかし最後の一文を読み、私ははあ?と大きな声をあげてしまった。
「運動会が土曜日だと家族の誰も見に行けないわが家。大変残念なことだが、当日子どもを欠席させようかと思案中である」
小学生の女の子のママである友人から、「最近は家族で旅行に行くからって学校を欠席させる親がいるんだよ」と聞いたときと同じくらい驚いた。そんな理由で休ませるのか、運動会を?小学校ってそういうところなのか?
家族の誰にも来てもらえないのは、子どもにとったらそりゃあ寂しいことだろう。当日給食がなかったら、お昼はどうなる?「うちの子も一緒にお願い」と頼める親しいお母さん友だちがいなければ、わが子は先生とお弁当を食べることになる。それを不憫に思う気持ちはわかる。しかし、だからといって休ませるのか。
子どもにはなんと言うつもりなのだろう。「パパもママも見に行ってあげられないから、運動会は休もうね。しょうがないもんね」と?先生には「風邪を引いてしまいまして」なんて言い、子どもにも口裏を合わせさせるのだろうか。
そんな親を見て、子どもはどう思うのだろう。「ふうん、学校ってべつに行かなくてもいいんだ」と勘違いすることはないだろうか。その日、子どもは家でひとり何をして過ごすのか。次の日、クラスのみんなが運動会の話で盛り上がっているのをどういう気持ちで眺めるのだろう。
私はそちらのほうが気がかりだ。
心配なのはわかる。寂しい思いをさせてごめんね、もわかる。しかし、それを味わわせぬために休ませようとするのはまったく理解できない。
それは子どもを守ることでもなんでもない。そういうのを「過保護」というのではないのか。

というのが、二〇〇二年五月十六日時点での私の考え。
何年か後に私がこの女性の立場になることがあっても子どもを休ませることはない、といまは思っている。
しかし、子を生み育てるという経験は人の価値観や時には生き方まで変えてしまうことがあるという。いまの延長線上で、母の立場にある自分についてリアリティのある想像をすることはむずかしい。
この投稿の切り抜きはとっておこう。そしていつか読み返し、感想を今日の日記と比べてみよう。そのとき私はこの女性の意見に頷くのか、それともやっぱり首をひねるのか。
楽しみにしておこう。

【あとがき】
新聞の投稿欄は読み飽きないからいい。web日記は書き手が同じだから文章にクセがあるうえ、話題がどうしても限られてしまうので、だんだん新鮮味がなくなってくる。その点投稿では、下はティーンエイジャーから上は八十代まで、毎日いろいろな人の書いたものが読めて、まるで食堂の日替わりメニュー。これを読むと、「私も書くぞ」と意欲が湧いてくるのです。