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人は絶対に解り合えない、頑張っても気持ちの1割すら伝わる事はない。
人は中々「自分が間違っていた」とは思わない生き物だ。 その割には 口にはしないにしろ、「彼(彼女)は間違っている」 「彼(彼女)は詰まらないやつだ」などとは簡単に思ってしまう。 それも本当に、他人から見れば割とどうでもいい様にも思える事で。
「自分が間違っていた」と思わない事自体は それほど間違った事ではない。 生きるために基本となるのは主観であって客観ではない。 客観で動く人間は、主観で動く人間に必ず後れを取ってしまう。 生きて行くのに、時には致命的な不利を食ってしまう。
物事を客観視出来ない人間がいるために問題が起きる事がある。 だが主観を押し通せる人間はいつも必ず強い。 強いと言う事は、基本的に間違いではないのだ。
だが人間は、いつも誰でもそれほど強いわけでもない。 主観同士のせめぎあいになると、強弱がはっきりと分かれてしまう。 せめぎ合っていると互いが意識した時から、折り合う事はない。 だからどちらかは 一歩引く事になるだろう。 引いた方は 正しい方でも、賢い方でもなく弱い方である。
解り合えないと言う言葉は、この積み重ねで生まれて来るのでは ないかと思う。 せめぎ合いに弱い。主観に間違いはないのだと言う意識が強くても それを押し通すだけの強さがない。 得意じゃない、面倒だなどと言っても、物事は結局 押し通せた者が強い。
解り合うなどと言う言葉を(否定的にせよ)胸に秘めている心優しき 人間は、穏やかにせめぎ合わず、一生を暮らすのが望ましいのかも知れない。 強い我の前には肩を竦め、やり過ごすしかない事も多いだろう。
だが、自ずと内省的にならざるを得ない面があるだろう こう言う人は 強い客観性(知性)をフルに活用する人生を送るのが、おそらく最も似合う。 賢い者が強いと言う状況を選んで生きる楽しさもあるだろう。
ただ、解り合えない事の理由を 相手の中にも見付けたような顔をして 他人に対する誠実を捨ててしまうのは悲しい。
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