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西原理恵子「上京物語」「女の子物語」を読む。
西原さんと言えば「まあじゃんほうろうき」の中で出てくる 「身体で払えりゃ、どんだけ楽か」が気に入っていて今でも良く使って いるが、一番好きなのは「ぼくんち」だ。映画は観てないけど。
「女の子物語」は「ぼくんち」より貧乏度が、少しだけ身近な貧乏になり 視点が半自伝的な女の子視点であり、「ぼくんち」とはまた違った意味で 楽しめた。
何年前かは 年齢が本格的にばれてしまうから言えないのだが、新婚すぐ 公務員宿舎に越したら招いた友人に「可哀相、こんなところで暮らすの?」 と真顔で言われた。これにはかなり驚いた。確かに古いが、作りはしっかり しており、家が適度に呼吸しているので身体には良いのだが。 失礼だなあ(苦笑)って感じだった。
長屋育ちだ。長い長い、信じられないほど急な坂道の天辺に、火が付いたら 全部一斉に燃えてしまう、木造のボロボロ長屋。私たちが越してすぐに 危険だと言う声が地域住民から上がり(笑)取り壊された。 家から一歩出ると前のアパートとの間に人一人が通れる道がある。 そして冬になると前のアパートから2メートルにもなる氷柱が下がり その下を行くしか、家から出る道はないのであった。 生トラップの世界である。 そんな場所で、それでも雪だるまを作り、気に入った部分に黄色い雪を はめ込んで遊んでいたのだが、それは勿論、尿であった。
小学2年にして「貧乏」と言う意識がはっきりとあり、「うちは貧乏」と 割り切って暮らした。新興住宅街に「金持ち通り」と名前を付けた。 貧乏だからつらいとか不幸とか言う意識は、子供にはまるで無い物だ。 ただ、当時ピアノがあって、お母さんとアメリカンフラワーと言う手芸を 一緒にやるお友達がいて「いいなあ、私もお母さんと手芸やりたいなあ」 と、それはいつも思った。 母は手作業はいつもやってはいたが、それはミシン内職だった。 吹雪の日、内職の完成品を風呂敷に包んで、坂道の天辺を歩いて行く母の 後姿を見るといつも、このままお母さんは帰らないのではないかと 不安になった。いつも弟だけ連れて行くので、弟とこのままいなくなる んじゃないかと思って、一人で泣いて待った。
小学5年の時に、レースのカーテンと日差しが一杯に入るベランダと ピンクと白の壁紙の部屋に案内され「ここがお前の部屋だよ」と言われた時 嬉しいと言うより、悪い冗談のような気がした物だ。 水洗便所の流れる音で私も弟も怖くて泣き、瞬間湯沸かし器が点いても その音で泣いた。絨毯のひいてある階段は滑って落ちた。 その家ですら、今にして思えば下町で、広い意味では長屋だった。
それから更に実家は2軒ほど家を変える。私はそれ以上に何度も何度も 引越しをした。一人暮らしをしたり、そうでなかったり。 あからさまに怪しいバブルでそこそこ上手くやり、その後をどうにか凌いで 両親は何とか、終の棲家と言う物を手にしたようだ。 ところが、そこに暖かいところで野生化した朝顔のように始末に終えない 私と私の息子が住み着いて、日夜根を張り続けている。
我が家は何とか凌げたが、父の取引先で命を絶った人は、バブル崩壊後 何人もいた。「また死んだ」「またつぶれた」「また自分で・・・」 こんな会話がほとんど毎日交わされていた頃は、私は実家にはいなかった。 亡くなった人の会社はどこも、ほとんどが少し前まで、物すごく景気が 良くて、従業員も沢山使っていたのだが、傾くとあっと言う間なのだ。 父の会社は小さかったのと、指先と口先で何とかまあ、家族一つを食べ させると言う感覚なので残ったと言う事なのだろうか。 ここを読んだら、父は怒るだろうが。
何も持ってないんだと思っていた方が、いっそ楽と言うのはある。 持っていたものを失くすと言う事は、何度経験しても慣れない。 また失くすんだ、いつ失くすんだと恐ろしくなるだけである。
「可哀相、こんなところで暮らすの?」と訊ねた友人からは、毎年 飲みに行きたいねえと年賀状が来る。その当時と今も住所は変わらず 姓も変わっていない。高校時代から、情報は何も変わっていない。 それでも私の知らない所で、何かを失くしているのだろう。 何を失くしたか、今年は会って聞いてみようか。
坂の天辺のド貧民長屋の窓から港のいさり火が見えた。 それはとても幻想的で、今でも目に焼き付いている。 つまり貧乏の中にも、良い事はあるのである。
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