もうちゃ箱主人の日記
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| 2010年06月23日(水) |
昔、カール・ベームという指揮者 ・・・がいた。 |
カール・ベーム (Karl Böhm, 1894年8月28日 - 1981年8月14日) ///////
そんな昔のことではないと思っていたら、 今の若者の中には、知らないという人も、、、
考えてみれば私が クラシック音楽を聴きだした 1968年頃 1954年に亡くなったフルトヴェングラーの演奏を 「古くさい」と思っていたのだから 無理もないということか。。。……(^^;)
先日も引用したが、堀内修氏の著書にあったカール・ベーム評。
>つい最近、改めてベームが指揮した『フィガロの結婚』の全曲盤を聴き、 愕然としてしまった。 古臭くてついていけない、と感じたからではない。 なんと美しく、なんと優美な演奏だろう、と思ったからだ。 現役の指揮者として振っていた『フィガロー』を聴いた時は そう思わなかった。 ベームはその前の時代の、よりロマンティックな演奏に対し、現代的で 硬いところのあるモーツアルトと考えられていたし、そう感じていたのだ。 ところがいま聴くと、優美そのもの。これが失われたウィーンの優美な モーツァルトそのものだ、 と思えてしまう。
ほんと 当時、カール・ベームは いわゆる ノイエ・ザハリヒカイトの信奉者で フルトヴェングラーら、ロマン主義的演奏の対極に位置すると 考えられていた。
代表的な例が、BPOと録音したブラームスの1番ね。 当時は、端正な演奏と思って聴いていたが 今、聴きなおすと、そんなことはない。 十分にロマンチックだ。 (^ω^)
ベームの録音で有名だったのが、 《トリスタントイゾルデ》のバイロイト録音。 他の大指揮者の録音がLPまるまる4枚だったのが ベーム盤は、3枚半に収まるということから テンポの「速い」指揮者とされていた。
その彼のテンポが遅くなり始めたのを 感じたのは、 ウィーン・フィルとのベートーヴェン交響曲の録音。 特に、第九を聴いた時、実感した。
そう思って、聴いてみると 例えば、モーツァルトの《レクイエム》ら その頃の録音は、みんなそう。 ベーム老いたり、 とそう思ったものだ。
さて、世評高いモーツァルトだが もちろん、私は、彼の演奏で モーツァルトを知った。
三大シンフォニーを始め 《コシ・ファン・トゥッテ》や《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》、《魔笛》 みんな、彼のLPで知った。
特に 《コシ・ファン・トゥッテ》の映画には感激したものだ。 (同じにリリースされた《フィデリオ》と共に、 お金持ちの知人のお宅に伺い、高価だったポニーの ヴィデオ(VHS以前のマガジンという形式)を見せて頂いたことも 懐かしい)
晩年にウィーン・フィルを連れて来日した時も もちろん聴いた。(会社を休んで、、……(^^;))
亡くなる前年、ウィ−ン・シュターツ・オパーとの 《フィガロの結婚》。。 名演奏には違いないが、生命力に乏しい、 抜け殻の演奏のように感じた。
堀内氏の言葉で 同感したのは、
>さまざまな上演を味わえる現代でも、安心して歌だけ聴ける、時代劇オペラ としてのモーツァルトを楽しむには、オペラの辺境に出かけるほか なくなるだろう。 さもなければ1960年代の舞台を思い出しつつ、CD全曲盤を聴くことになる。 ノスタルジーに浸るのも悪くない。 昔から、年季の入ったオペラ・ファンは過去を懐かしんできたのだ。
そう、ノスタルジーを、恥ずることはない!
昔だって、トスカニーニやフルトヴェングラーを、ひたすら信奉し カラヤンやベームを排斥した人々がいたのだ。
信じられないと思われるかもしれないが、 1960年代末期の『芸術新潮』のレコード評欄では 新譜の紹介の欄に、新譜の評に加えて 毎回決定盤をあげる評者がいた。
例えば、アバード=VPOのベートーヴェンの第7シンフォニーの紹介の後に 「この曲の決定盤は、トスカニーニの1939年録音!」 などという評が、掲載されていたのだ。
思い出したぞ。 シェリング、フルニエ、ゼルキンの《大公トリオ》に対しては 「この曲の決定盤は、SPの カザルス・トリオ!」 (笑)
(もちろん私は、「何を古臭いことを言ってやがる」と 反撥しながら読んだのだが、、)
いまや 私も、その「古臭いことを言ってやがる」世代になっちゃった。……(^^;)
でも 時には、新しい風にも、当たっていたい。
もうちゃ箱主人
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