もうちゃ箱主人の日記
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2010年06月20日(日) モーツァルトオペラ 現代の上演・演出について

堀内修著 『モーツァルトオペラのすべて』   
  平凡社 (2005年12月)




ずいぶん遅ればせだが、上記を読んで驚いた。
2006年を当て込んで書かれた新書で
しかも、『モーツァルトオペラのすべて』という大仰な題名を見て
敬遠していたのだが、、

読んでみたら、ずいぶん過激っぽいことが、書いてあった。
(我々の仲間内では、それほどのことではないのだが
  一般のモーツァルト・ファンには衝撃的と思う人もいるだろう)

私は、この本の主張すべてに賛同するわけではないが
かなりの部分、わが意を得たような気がする。

(以前、カルチャーセンターで、この方の講演を二三度聞いたことがあるが
 無難な話ばかりしていた。あれは年齢層の高い聴衆に配慮していたのか。)


 (興味あったら、新書ですから、お買い求めになって
  全文、お読みになることをお勧めします)


面白いと思った箇所の抜粋を、いくつか、

例えば、こんなところ
>つい最近、改めてベームが指揮した『フィガロの結婚』の全曲盤を聴き、愕然としてしまった。 古臭くてついていけない、と感じたからではない。
なんと美しく、なんと優美な演奏だろう、と思ったからだ。
 現役の指揮者として振っていた『フィガロー』を聴いた時はそう思わなかった。ベームはその前の時代の、よりロマンティックな演奏に対し、現代的で硬いところのあるモーツアルトと考えられていたし、そう感じていたのだ。ところがいま聴くと、優美そのもの。これが失われたウィーンの優美なモーツァルトそのものだ、と思えてしまう。


>ラトルの指揮した『コシ・ファン・トウツテ』には、別の洗練があった。
きつい強弱の対比や、ヴィブラートを抑えた響きや、まるでスイッチで操作するように移ってゆくテンポで、ベルリン・フィルが演奏する時、そこには現代の、洗練を極めたモーツァルトがある。もう後戻りはできない。


>さまざまな上演を味わえる現代でも、安心して歌だけ聴ける、時代劇オペラとしてのモーツァルトを楽しむには、オペラの辺境に出かけるほかなくなるだろう。さもなければ1960年代の舞台を思い出しつつ、CD全曲盤を聴くことになる。
ノスタルジーに浸るのも悪くない。
 昔から、年季の入ったオペラ・ファンは過去を懐かしんできたのだ。

>劇場にやってくる客に問題を投げかけたり、あえて挑発したりもする。
演出によっては、スキャンダルを怖れないどころか、むしろそれを狙うことだってある。昔に作られた、かつては安心して楽しめるオペラとして提供されていたモーツァルトは、時には目をそむけた くなる現代のドラマとして、ますます元気に生きている。




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<本文のごく一部>


>現代の演奏

優美な「ウィーン風」のモーツァルトも悪くなかったなあ、と思う時がある。
年季の入ったモーツァルト・ファンには、優美であってこそ『フィガロの結婚』じゃないか、と信じて疑わない人だっているはずだ。

さすがにブルーノ・ワルターが指揮した、ロマン派の演奏スタイルに直結するモーツァルトとなると、直接知っている人は日本にはほとんどいないだろうが、録音で聴くことならできる。 《中略》

半世紀前の話だけではない。少し長くモーツァルトのオペラを楽しんできた人なら、カラヤンかベームの指揮するモーツァルトが、規準になっていたのではないか。1980年代まで、モーツァルトのオペラの上演の、頂点を成していたのはザルツブルク音楽祭だった。モーツァルトの都市としてのザルツブルクの名声を支えたのが、カラヤンとベームだった。

 当時はベーム派がカラヤン派を攻撃したり認めなかったりして、まるっきり違うスタイルの共存と考えられていたのだけれど、いまになってみれば、二人のやり方はともに伝統に沿ったやり方で、どちらもすぼらしかった。そしてどちらも懐かしい過去のモーツァルトとなっている。 《中略》

 ・・現代の上演に親しんでから、 1960〜80年代の、カラヤンやベームの指揮するモーツァルトを聴くと、それが過去のスタイルであるのが、はっきりとわかる。
 つい最近、改めてベームが指揮した『フィガロの結婚』の全曲盤を聴き、愕然としてしまった。 古臭くてついていけない、と感じたからではない。
なんと美しく、なんと優美な演奏だろう、と思ったからだ。

 現役の指揮者として振っていた『フィガロー』を聴いた時はそう思わなかった。ベームはその前の時代の、よりロマンティックな演奏に対し、現代的で硬いところのあるモーツアルトと考えられていたし、そう感じていたのだ。ところがいま聴くと、優美そのもの。これが失われたウィーンの優美なモーツァルトそのものだ、と思えてしまう。

 実をいえば、現在も十九世紀からの伝統を引き継いだモーツァルトの演奏が、ないわけではない。たとえばウィーン国立歌劇場音楽監督となった小澤征爾の指揮する『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』には、過去の演奏スタイルが刻印されている。喜んで迎え入れる人もいれば、とまどう人もいる。大勢は違う方向に進んでしまっているからだ。

 モーツァルト演奏の大御所で、カラヤン、ベーム後のザルツブルク音楽祭でのモーツァルト演の立役者でもあったニコラウス・アーノンクールは1960〜70年代、ウィーンで新しいモーツァルト演奏に取り組んでいた。ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスを組織し、十八世紀の演奏法を研究して、ピリオド楽器 (作曲された時代に合わせた楽器 )を用いて、当時の演奏の再現を目指した。ベームがそれを批判したのを憶えている 当時アーノンクールとウィーン・コンツェントゥス・ムジクスは細々と活動していた。それが逆転してしまった。

 十八世紀にはどんな楽器が使われ、どのように演奏されていたか ?
歌手たちはどのように歌っていたのか?
モーツァルトは『フィガロの結婚』を、どのように上演しようとしていたのか?  そうした「研究」は、研究室にとどまらない。
オペラを過去の遺物としないための試みは、面白いことに、過去の遺物を研究することで活発になったのだった。 《中略》

 さらに大きな変化は、ピリオド楽器による演奏のスタイルを、標準的なオーケストラが取り入れるようになって起こった。現在では、歌劇場にピリオド楽器の演奏団体が入ることもあるし、オーケストラにピリオド楽器の奏者が加わることもある。そして、オーケストラがピリオド楽器の奏法を取り入れた演奏をする例も、少なくなくなった。強い主張を持った一団のやり方は、いつのまにか、音楽界の中心へと入り、混じりあったのだった。 《中略》

しかしラトルの指揮した『コシ・ファン・トウツテ』には、別の洗練があった。
きつい強弱の対比や、ヴィブラートを抑えた響きや、まるでスイッチで操作するように移ってゆくテンポで、ベルリン・フィルが演奏する時、そこには現代の、洗練を極めたモーツァルトがある。もう後戻りはできない。





>現代の上演・演出

『フィガロの結婚』も『ドン・ジョヴァンニ』も『コシ・ファン・トゥツテ』も現代劇だ。
それがモーツァルトの時代の現代劇か、私たちの時代の現代劇なのかは、上演次第。どちらかといえば、後者のほうが優勢か。衣裳や舞台美術をロココにしても、あくまで現代の、私たちにとってのオペラとして上演されることが多いから、『フィガロの結婚』の上演のほとんどが、現代劇としての性格を持っているとみてもよさそうだ。

 モーツァルトのオペラを初めて見る人だったら、おそらく現代の、主にドイツを中心にして行われている舞台を存分に楽しめるだろう。
でも、これまで少しは見ている人の中には、違和感を味わう人もいる。
犠牲者としてのドン・ジョヴァンニなど、間違っている!と叫ぶだけでなく、
そもそも伯爵が背広を着ているのが許せない、と怒る人も、少数になったとはいえ、健在だ。
いまのところ、ロココ風の衣裳と、常套的な演技による上演も、かろうじて生き残っているけれど、これからは難しい。

 さまざまな上演を味わえる現代でも、安心して歌だけ聴ける、時代劇オペラとしてのモーツァルトを楽しむには、オペラの辺境に出かけるほかなくなるだろう。さもなければ1960年代の舞台を思い出しつつ、CD全曲盤を聴くことになる。
ノスタルジーに浸るのも悪くない。
 昔から、年季の入ったオペラ・ファンは過去を懐かしんできたのだ。
   《中略》

 しかし現代に直結する「演出の時代」は、もう少し後になってから盛んになる。立役者はジャン・ピエール・ポネルだった。
ポネルがスター的な演出家として注目された 1970年代以降、モーツァルトのオペラは、ただ美しい歌と音楽を中心とした舞台作品ではなくなる。

 ポネル演出による『フィガロの結婚』は、ウィーン国立歌劇場の引越し公演で、日本でも見られたが、ベームの指拝と組んだ映像作品も残っている。繰り広げられる出来事や人物関係が明瞭になり、ドラマの流れがくっきりしただけではない。そこにははっきりとした階級対立が見てとれる。伯爵対フィガロ、そして伯爵対伯爵夫人の対立が強調されている。上演の許可を得るため台本作家ダ・ボンテが抜きとったといわれる、このオペラの危険だったところが、実は生きていて、いまも力を発挿するのが証明されていた。


ポネルと同時期に、当時の東ドイツの演出家たち、ハリー・クプファーやゲッツ・フリードリヒ、ヨアヒム・ヘルツらが、ドラマをちゃんと作り上げるという以上の、踏み込んだ表現をするようになり、モーツァルトの上演は活気づく。
イギリスやフランスの演劇畑の演出家たちも乗り出し、モーツァルトのオペラの上演は、大きく変わってゆく。その大きなヤマ場が、 1991年の没後二百年の「モーツァルト・イヤー」だった。《中略》

 「モーツァルト・イヤー」のあと、落ち着きを見せるかと思われたが、落ち着くどころか、さらに進化していった。クプファーやフリードリヒ同様旧東ドイツの演出家で、最もスキャンダラスだったのが、ルート・ベルクハウスだった。
 ペーター・コンヴィチュニーをはじめ、ベルクハウスに師事した演出家たちが、いまやドイツ演出界の中心的勢力となっている。

 虚色をはぎとり、性的な要素を中心にすえるのがベルクハウスのやり方で、アンナやエルヴィーラなど、女たちの欲望のままに弄ばれ、地獄に落ちてゆくドン・ジョヴァンニは、彼女の面目躍如だった。その時は問題視されたのだが、現在はその先に到達してしまった。ベルクハウスの影響は大きく、モーツァルトのオペラのエロティックな面は、今日劇場でそれを聴く人の常識のようになっている。

 もともと『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』が、大変官能的なオペラであるのは、十九世紀には、誰もがそれと知りながら、あえて舞台上で表現しなかった。道徳的な時代のやり方だったわけだ。
現代は、遺徳的というわけではなかった十八世紀に直結しているのかもしれない。ケルビーノに舌なめずりする伯爵夫人や、ドン・ジョヴァンニをものにするためならなんでもしでかそうというエルヴィーラが、堂々とその欲望を白目のもとにさらすようになって、モーツァルトのオペラは現代化した。

 もちろんモーツァルトのオペラは、エロスだけに支配されているわけではない。家族の問題は『イドメネオ』の重要な主題で、演出家は時にこの父と子の問題を現代化させる。また現代の世界情勢とだって、モーツァルトのオペラは関わっている。西欧と中東、あるいはキリスト教圏とイスラム国家との、毎日のようにニュースに登場するあつれきを抜きに、『後宮からの逃走』を上演するのは、いささか難しくなってきている。

 解釈の明確化と主張ある表現だけが現代の演出ではない。
心理的・社会的な解釈を内在させたまま、オペラの演劇的リアリズムを追求するやり方だってある。リュック・ボンディやトマス・ラングホフのような、リアリズムを基本とした演出も、現代の最先端に立っている。   

 劇場にやってくる客に問題を投げかけたり、あえて挑発したりもする。
演出によっては、スキャンダルを怖れないどころか、むしろそれを狙うことだってある。昔に作られた、かつては安心して楽しめるオペラとして提供されていたモーツァルトは、時には目をそむけた くなる現代のドラマとして、ますます元気に生きている。
  (18〜23頁)


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