ことばとこたまてばこ
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物をもつときに、かいもののときは、手話を交わすときで、しっかりと握っては離す。 そんなことくらいしかわたしの手は使い道がなかった そう思いこんでいたけど、中学校生活も終わりを目の当たりにしていた日の午後、好いたらしいあの人に「手をにぎってもいい」と問われたとき、あーあーあー、そうだそうですよ、そのような役割もあるんだ!ってやおらに気づいた。 「おぅけい、おぅけい ほんとにほんとに まかせておくれよ!」 気づいても未だ動転していた私の手はつい滑った。 妙な表情と共に頬は熱くって、たぶん虫に喰われた林檎なみね。 どうにかつないだ好いたらしいお方の手は冷たかった。
うつろって。
好いたらしいお方の何人目だったか、と考える必要もない。 このお方が最後の人なのだ。それって夫。なんどもむつびあってはこども3人。そのこどももそれぞれまた好いたらしいお方を見つけて孫8人。
夫はベッドに横たわって、焦点の定まらないうろんな眼を天井に向けている。 7時の番組がTVから流れると同時に夜が始まる。夫の身体を拭く時刻だ。電動式のベッドのボタンを押して身体をかたむけさせた。しゅんしゅんと汗に混じって嗅ぎ慣れた老人臭が鼻腔に。やや水が含むていどに絞ったタオルでその臭いをこそげとるように強く手を動かす。上半身から下半身へと拭く範囲を広げていく。
夫の痩せ衰えたふくらはぎを拭いている時、私の背中を叩くものがあった。振り向くと夫が手を差し伸べている。以前としてその眼は小刻みに痙攣しながら上空を仰いではいるのだけれども、その手はたしかに私に向かって。私は手を握る。私と夫との意志の疎通は手しかない。何万何千もの片語を見てきたその手は堅く骨張っている。それを感じるたびに私はどんな些細なことを話すにも妙に力の入った夫の手話を思い出さずにいられない。
私の手の中で彼の手が上下する。まったく声と声が生々しくぶつかってる。少しく時間が経てどもまだ彼の手は上下を繰り返している。何を伝えたいのだろう。こういうときは、まるで決まり事のようにいつも行っていることがある。
彼の手を私の手に誘導して触手話を言う。 「おぅけい、おぅけい ほんとにほんとに まかせておくれよ!」 ついでに思い切り脚色した表情にも手を触らせる。 するとそのたびに彼は暗闇したたる洞穴から陽光満ちる外界へとまろび出たかのように眩しく顔をしかめたのち、首を大きくまわして眼を薄く開くのだ。
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