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2004年11月12日(金) あなたなしで   律

海原みち子は、嗚咽がとまらない唇を白い無機質な便器に向けた。
汚物が溢れ出す。
何度も何度も躰がバウンドし、酸っぱい味が喉から舌の先へと吐き出されていく。

飲みすぎた。
わかっている。
でも飲まないではいられない事情が、みち子にはあった。

八年付き合った上司の山村常男が、同じ職場の五歳年下の後輩、天堂ヤス江と二股をかけていたのだ。その事実は今夜、知った。
つい、さっき。

十五分前、みち子は新観コンパで居酒屋にて、飲み慣れない酒を連勺されながら、いつもの穏やかな笑みを絶やさないでいられた。
三段腹の部長。
貧相なキツネ目の係長。
はしゃぎ加減が「学生ぽさ」をぬけないウザい同年の課長、粒谷。

酌み交わされる杯。
繰り返される「乾杯」
意味不明な笑顔と低レベルな駄洒落。

煙と喧騒の向こうに見慣れた爽やかな笑顔は健在した。

少し、疲れた感じで気をつかって笑顔をふりまくあのひと。
少し、はずれた冗談で場をリラックスさせて、そっと陰で息をつくあのひと。
笑いシワが年の割に誰よりもあって、老練たちを懐柔していく・・・それが、私の恋人・常男。

恋人だった男。さっきまでは。

化粧直しに入ったトイレで、ヤス江が告げた。
常男によって妊娠したことを。

ずっとずっと付き合っていたことを。
視界が回る。
お酒のせいかしら。

違う。
正気が保てない。
信じていたことが、足元から崩れるってどんな感じ?
こんな感じ?
認識できない・躰いっぱいで現状を拒否して、こんなときに限って、彼の姿は見えない。
「行方不明」だ。
こんなときに限って、行方不明なのだ。
いつも・・・そうだ。彼は。
空気と流れを読むのがうまい。
気配を感じて、身を隠したり現したり。
魔術師のように、神出鬼没で抱きしめられて、噛んだガムのように放っておかれた。
そのアップダウンな愛し方から離れられず、八年を費やした。

そして、今、本当の正念場がきたのかもしれなかった。

下唇から滴り落ちるゲロ液をぬぐいもせず、みち子は無様だと過去を振り返っていた。

ふと、裾を引っ張る感じがして、その力強さに違和感を覚えながらも現実感が伴なわず、反射的にみち子はその力が発する方・・・袖口に顔を向けた。

小さな子供がいた。

とんがり帽子にダブダブのツナギのような服を着た、直径十センチ程のレトロな格好をした男の子だった。

彼はキラキラした輝く瞳で、みち子に話し掛けた。

「吐くって、どんな気分?ボク、まだ初体験なんだ」


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