| 2013年10月15日(火) |
ワキか股間か足の指の間か |
ちょっと前の回になりますが、福山蒸溜所#79にて、
ホットスポットのロケでアフリカのナミビアに行った時のお話。
福「電気もなかったから、ホットシャワーも出ない。
温かいシャワーを出すためには、ナミビアは砂漠気候なので、昼間のうちに水のタンクごと
日なたに出しておけば熱湯になるので、それを夜シャワーに使う。奥地になるとそれもなくて、
水貯めたドラム缶を薪でずっと焙って温めて、各部屋に回したりとか」
ス「不便ですね、やっぱり」
福「水がないところ、電気がないところに行けば行ったなりに、だんだんそれに慣れてくる。
ろうそくの明かりにだんだん慣れてくる。
パソコンも電話も通じなくて最初は手持ち無沙汰だけど、2日もすると『ま、いっか』
みたいになってくる。
シャワーも本当にちょぼちょぼしか出ないんだけど、そのちょぼちょぼでいかに上手く浴びるか、
を、だんだん考えだすわけ。
これは『慣れ』とも言うけど、同時に『順応』という言葉にも置き換えられる。
何もないなら何もないでそこに順応し始めて、『東京での暮らしをもっとシンプルにしよう』って
思うんだけど、東京に帰ってきたら帰ってきたで休みなく働いて忙しくなるのは、
東京の生活の中でできることを目いっぱいしようという、これも『順応』なんだと思う。
東京という都市型の生活に順応した結果、こういうスケジューリングとこういう人間関係で生きている、
ということも言えるんじゃないかと。」
今「ケータイの充電切れたり、PCの電源落ちたりするだけでドキドキしますよね」
福「ケータイの充電もそうだけどさ、そんなの切れたって家に帰ってゆっくり充電すればいいのに、
切れた! どうしよう!ってなって、充電器が売られるようになり、それでももたないから
また別の電池パック持ち歩くとか。どんどんニッチにマニアックになっていくじゃないですか。
足りないものを補おうとして逆に荷物が増える。過剰になっていった人間の、ひとつの状態だと思う。
ホットスポット行って、いつも『いいな、ホットスポット好きだな、自分にとって大事だな』と思うのは
都市型の生活って過剰だということに気づくから。食べ物もそうだし、エネルギーの使い方も、水も。
ほんっとにちょぼちょぼしか水が出ないトコでは
『さあ、どうやって今日はワキと股間と足の指の間を洗おうか?』と、まずお湯を出す前に考えるわけ」
ス「考えるんですね」
福「考える。『髪・・・・いっか、今日は洗わなくても』とか」
ス「そういうあきらめもあったりね」
福「ワキ・・・よりもやっぱり股間が先かな! みたいな」
ス「はっはっはっは!」
福「そういうクリエイティブが始まるわけですよ。ちょろちょろの水の中で。
それこそがやっぱり、人間の知恵であり順応じゃないですか。無いなら無いで対応していく。
東京ではオレ、部屋でキャンドルとか絶対焚かないわけですよ! 東京では明かりのための
キャンドルではないでしょ? でも電気がないところだと、キャンドルの、ろうそくの灯が必需品。
トイレ行くにも(真っ暗で)どっどっどっどこ?どこ? みたいになるから」
ス「そんな感じなんですか?」
福「真っ暗だから。むしろ外に出たほうが月明かりで明るい。でも外に行くと野生動物に襲われるから」
ス「なるほど」
福「でもそれが人間の原始の生活だから。だから、月明かりや星明りが明るいときっていうのは、
むしろ外には出られなかったわけ、人間は。動物に襲われるから。」
ス「今浪、危険だなぁ・・・」
福「だから、酔っぱらって道路で寝るなんていう今浪さんは、人間の堕落した姿の最たるものなんです!」
今「そうですねぇ・・・」
福「だから、やればできるんですよ。今現在の日本のエネルギー問題とかも。
エネルギーがなければ自分の生活だけじゃなく、国の競争力や工業力とかも下がってしまうから、
エネルギーを全部減らせばいいという話ではないんですけど、
過剰に使っているというのは 先進国の課題ですよね。是非とも異国や自然の中に行ってみてください」
何もない場所でも、ありすぎる場所でも、どちらでもオトコマエなまま生きていらっしゃるって
どんだけ順応力が高くておられるのでしょう。
しかーし!
一番想像してしまったのが、
まだお湯を出していないシャワーの前で、(おそらく全裸で)、さてどこを最優先に洗うべきか、を
沈思黙考なさるましゃの様子、だったことには、どちらさまも異論はないと確信しております。
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